仁木りんごの由来

 りんごの発祥地は中央アジアであると言われている。

 その原生種(野生種)がロシアのコーカサス地方を経てイタリア、フランス、ドイツ、イギリスなどの諸国に拡がり、さらにアメリカ合衆国やカナダに渡った。

 この間、ヨーロッパや北アメリカ大陸で品種の改良が加えられ次第に優良な品種に生まれかわっていった。

 我国には明治初年に、主として勧業寮や北海道開拓使が欧米からいろいろな果樹類と共にりんご苗木を輸入したが、当時「西洋りんご」と呼ばれたアップルはこの流れを汲むものであった。

 一方、我国にもその昔からりんごはあった。一般に「リンキン」とか「リンキ」と称していた和りんごで果実の大きさは直径1寸(約3cm)くらいで酸味が強く色は赤色と青色系の2種あったという。

 和りんごは西洋りんごと反対に原生地からシルクロード筋を東方に向かい中国でひろがり、後に朝鮮半島を通じて我国に入ったものと考えられているが、これは原生種を栽培化しただけで野生種に近いものであった。

 仁木町にりんごが植えつけされたのは、記録によると「明治15年、粟屋貞一がりんご苗木520本・・・」とあり、別の記録には「明治16年(1883)乃至17年頃、函館勧業寮から無償でりんご苗木が配布された」となっていてその品種も紅玉(六号)、倭錦[やまとにしき](7号)、青玉(9号)、祝(14号)、緋の衣[ひのころも](19号)、国光(49九号)といったものが主であったという。

 しかし、それ以前にも植えられているかも知れない。何しろ隣村の山田村では明治8年(1875)に開拓使の奨励で会津開拓者の各戸へ苗木10本ずつ配給され、明治12年に結果し、明治13年には札幌で開かれた農業假博覧会に出品し名声を博したのであるから、余市川一つ隔てた仁木村でも苗木を試作したと思われる。

 山田村に配布された当時の人々は、すぐに収穫のない苗木の取り扱いには冷淡であったらしく、ただ義務的に家のまわりに植えたり、中には束ねた縄も解かずに根に土をかけた具合だったから仁木村の人など珍しく思ってもらってきているかも知れないという話も残っている。

 その後、りんごの価値がわかり反当収入の多いりんご栽培はたちまち余市の農家にひろがり続いて仁木村にも及んだ。

 明治15年頃には、各戸で苗木をきそって育てはじめ、明治20年頃には黒川村や山田村で盛大になり、明治25五年頃には余市一円に広まった。

 しかし、りんごが農業の支柱となったのは余市では明治30年頃からであり、仁木村ではそれより10年遅れた明治40年頃であったという。

 りんごは初めの頃は病害虫もほとんど無く、放任栽培が可能であった。

 しかし明治30年代に入ると隣村の山田村では病気や害虫がだんだん多くなり、それがしだいに蔓延した。

 明治37,8年(日露戦争)頃には、芯喰虫[しんくいむし]のため袋かけをしなければならなくなり、また、その頃から腐乱病の発生も多くなった。

 こうした中で明治26年頃には初めて東京市場に出荷、更にその10年後あたりからロシア(ソ連)に盛んに輸出されるようになり、日露戦争後の好況もあってりんご栽培面積も急激に増えて現在の余市・仁木りんごの基礎が出来上がったと言えよう。

 余市地方のりんごの歴史をたどる上で行商のことを忘れるわけにはいかない。特に第二次世界大戦後、物資不足のころは余市・仁木は絶好の行商地となり、一時はその産額の半分以上は行商の人達によって他の市町村に売り捌かれたという。

 仁木りんごの生産高の最も多かったのは、昭和23,4年から昭和30年頃にかけてであって18kg詰箱で100万ないし120万箱とれたと言われている。

 なお、仁木で栽培されたりんご品種の基本的なものは、明治初年に欧米から輸入されたものであるが、その後も機会あるごとに導入された。特に大正12年にゴールデンデリシャス、昭和4年に導入され今日市場で人気をはくしているスターキングも米国種である。

 現在も品種改良や栽培技術がますますさかんに進められており、仁木のりんご樹園も、それら内外の新品種に次第に更新されつつあるように見受けられる。

 ちなみに旧来のりんごの品種を挙げてみると、青玉(9号)、あずき玉(26号)、旭(朝日)、祝(14号)、1号(赤竜)、初笑、インド(43号)、イェートランス、えぞ衣、黄竜、花魁[おいらん]、於福[おたふく]、甘露(99号)、君が袖(2号)、黄魁[きさきがけ](57号)、菊形、黄早生、生娘[きむすめ]、黄金丸、紅玉(6号)、金時、黒竜、青竜、小町、国光(49号)、サトウりんご、翠玉、玉霰[たまあられ]、滝田祝(紫14号)、大猩々[だいしょうじょう]、鶴の卵(30号)、つるなが、花嫁、白竜、緋おどし、緋の衣(19号)、富国20号、日の出(紅斜子[べにななこ]とも呼んだ)、鳳凰卵[ほうおうらん](13号、ホウチョウランとも呼んだ)、宝玉(赤3号)、ホウズキりんご、倭錦(7号、安倍七[あべひち]とも呼んだ)、柳玉(48号)など拾いあげると50品種にも及んだ。中でも紅玉、祝、旭(カナダ産)、緋の衣、国光などはもっとも重要視され余市・仁木の代表的なりんごであった。

 なお、この稿を草するに当たって仁木町内の杢保弥代吉、笠井得壱、大西藤四郎、登町在住の森晴正、久保孝、庭田親雄各氏からいろいろとご教示を得た。

りんごの百年樹
仁木町北町2丁目、杢保弥代吉氏宅の庭先にある祝種(14号)のりんごの古樹(樹齢百数年)
主幹は空洞化しているが、今も毎年結果する。文化財的価値のある名木である。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p64-67: 25仁木りんごの由来 --- 初出: 仁木町広報1983(S58).9,10

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