原士の後裔

 徳島藩の二代目藩主であった蜂須賀忠英が慶安3年(1650年)、領地内を巡視したおり、たまたま阿波郡(現在市場町)の土地柄をみて、あまりにも未開の山地や原野が多いのに驚き、藩内の農業生産を高め年貢収入を増加させるためにも、広々とした原野を開墾しなくてはならなぬと考えた。

 元来、阿波郡一帯は荒れ川と言われている日開谷川や金清川などがつくった扇状地面で原野は広いが砂礫地が多く、水利もまた不便であったので百姓達も立ち退き、当時はほとんど人が住んでいなかった。

 したがって入植者にはさまざまな特典を保障しない限り誰も手をつけようとしなかった。そこで蜂須賀忠英は、浪人者や百姓に武士の待遇を与えて入植させ、耕地を広げると共に非常の時の兵力となるような制度を思いつき、家老の長谷川貞恒に命じてそれを実行にうつした。これは徳島藩だけにしかない特殊な屯田兵的武士であって、これを原士[はらし]と称した。

 時が過ぎ、開墾地もひろがり原士の生活が安定してくると、武芸に専念する時間や経済的な余裕ができてきた。
 やがて軍事教練の目的として行われてきた武芸のきびしい稽古が原士達の教養を高め心身の鍛錬としての修養へと変わっていった。

 ところでこの原士の里とも言うべき徳島県の阿波郡(市場町)からかつて仁木村に入植し、その開拓にあたった人々が多く、大塚新治、大西仁平、笠井万治、島田豊蔵、坂東友蔵、森愛蔵、大森島蔵氏ら20数戸にも及んでいる。中でも仁木町旭台在住の大森正氏の曽祖父にあたる大森島蔵氏は、阿波郡喜来村の出身で原士の流れを汲んだ剣術貫心流の達人で槍術にも長けていた。最初からオサルナイ(旭台)に入植したが、荒地開墾や農作業の疲労もいとわず夜間や休日には近隣の若者達を集めて剣術の稽古をつけ続けた。

 大正時代には、その門弟の中から大天狗と呼ばれた坂東肇氏、小天狗といわれた井内福太郎氏をはじめ山石藤吉氏、大塚金吾氏ら相次いで高弟が現れた。

 当時、剣術は仁木村の若者達のあこがれの的となったが、この風潮は馬群別(銀山)、尾根内、長沢へとひろがり、稽古場や道場も設けられた。大森島蔵氏は高弟らとともに巡回指導にあたり、剣術の稽古を通じてその技を高めるのに努めると共に心身を鍛錬しかつ修養を深めさせていった。

 現在、大森氏の両家には、島蔵氏の刀剣や槍、秘伝書など多くの遺品が所蔵されているが、徳島藩300年の原士の流れが偲ばれる。

免許皆伝書 ー 大塚金吾氏へ与えたもの(仁木町教育委員会蔵)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p138-139: 58原士の後裔 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).10

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