地名からみた銀山

 仁木町銀山は、開拓時代から馬群別と呼ばれていたところであるが、昭和48年(1973)3月、同じ地域内にある国鉄函館本線の駅名にならって銀山と改められた。

 銀山駅は明治38年(1905)1月、開通した当時の北海道鉄道会社が、この付近にあったルベシベ鉱山や大富鉱山(銀山市街の南方の山地)から銀の鉱石がたくさん産出したので、これにちなんで駅名にした。

 ところで旧称の馬群別は、アイヌ地名の「チライ・マクウン・ペツ」がつまってマクンベツになり、それに漢字を当てたものである。それは「チライ(いとう魚)・マクウン(山の奥の)・ペツ(川)」で「いとう魚のいる山奥の川」の訳であって現在の銀山1丁目付近一帯の美田を潤している馬群別川がそれにあたっている。

 今から130年程昔、イナホ峠を越えてヨイチへ赴いた探検家松浦武四郎は、その著『東西蝦夷日誌』に当時の見聞を「………チライマクウンベツ 此辺イトウ魚多く産卵する枝川……此辺広大な平野なり 魚類はサケ、マス、ウグイ、アメマス、イトウ魚多し………」と述べている。

 イトウは鮭科に属しイワナ、ヤマベ、オショロコマと同様、水温七度前後の冷水域を好み、日本では北海道だけにしか棲息しないが、今は幻の魚と言われるくらい少なくなった。

 その大きさが体長2mにも及ぶというイトウ魚は、普通ウグイをえさにするが時にはネズミ、蛇、水鳥や狐まで襲うという。

 アイヌは「神は秋には鮭を、春にはイトウを与えてくれる」と信じていた。イトウの漁期は早春で福寿草の花が咲きだすと間もなくイトウがのぼってくる。それはコタン(アイヌ部落)の人々は福寿草のつぼみのふくらみ具合を見て、イトウの漁の支度にとりかかった。だから福寿草のことをチライ・アパッポと呼び、イトウの花と言った。

 銀山には馬群別川の他に種川、漁別[いざりべつ]川、マカナイ川などが余市川の本流に落ち合いそこに山間の広い平野をつくっている。種川や漁別川はいずれもアイヌ地名の「イチャン・コツ・ペツ」で「鮭や鱒の産卵場のある川」のことである。マカナイ川も同じ類で、開拓時代には年間魚がタダで賄えたので名づけられた川であるという。

 銀山地域は魚類にちなんだ地名がほとんどである。アイヌ時代の銀山は魚の宝庫ともいうべきところではなかったか。

銀山の平野、美田がひろがっている

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p86-87: 35地名からみた銀山 --- 初出: 仁木町広報1984(S59).8

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