仁木町の冷害と風水害

 農作物が不作や凶作になる原因は、気候の異変によるものが多い。それには洪水や暴風雨のため作物が荒らされたり、日照り続きで作物が枯死したり、霜がおりたりして作物が萎死してしまう場合がある。農作物は常に天候に支配され豊作になるのも凶作になるのも、その年の天気次第といってよい。

 仁木町の過去100年をふり返って、その凶作年を調べてみると旱害や病害虫もあるが、大方は冷害と風水害であって、およそ3年ないし4年に1度の割でその来襲を受けている。

 中でも災害の著しかったのは、明治32年8月12日、余市川大出水、りんごが殆ど落果した。

 明治35年、この年大冷害。大正2年と並び日本の気象観測史上の二大冷害年の一つで、農作物の被害多く米作は88%の減収。

 大正2年、明治35年同様大冷害。この年は冬から寒気が強く5月以降秋まで低温が続き、8月下旬台風くずれの低気圧が雨を運び、各地に出水。9月中旬、強い早霜に襲われ、田、畑とも大凶作となる。水稲は殊にはなはだしく、収量は皆無に近かった。従って農家は食料に窮し、中には糠やオカラ、笹の実などで飢えをしのいだという。

 昭和6年、天候不順で稀有の大凶作。冬の寒気きびしく、多雪。春は融雪災害、6月から7月にかけて異常低温。しかも大雨や日照不足で大冷害となる。殊に水稲は出穂が平年より1カ月も遅れた。燻煙をあげて霜害防除に努めたが、稲刈りも遅れ10月下旬から11月上旬に及んで雪を払いながら作業した。従って米の質も悪く、青米や屑米が多く、大方は等外米であった。

 昭和7年も冷害気候。夏季低温、日照不足。9月1日、大雨で余市川氾らん。次いで9月6日、大洪水、相次ぐ冷害と水害で田畑ともに大凶作。しかしりんごと除虫菊は中作だった。こうした相次ぐ凶作で、農村の疲弊いちじるしく、その恐慌が深刻化した。

 昭和19年、同20年と連続冷害年。特に20年は冬の寒気が強く、5月から8月にかけて低温。中でも7月の強い低温は冷害につながり、水稲不作。8月15日、敗戦を迎え食料危機は一層深刻になった。

 昭和22年は雨台風と言われたカスリン台風。昭和23年は激しい暴風雨を伴ったアイオン台風。昭和24年のキティ台風は雨の被害は少なかったが暴風の被害大、作物倒伏、果樹類の落果著しかった。続いて昭和25年9月、ジェーン台風の風水害と4年間連続して台風に悩まされた。

 昭和29年は、冬季温暖であったが夏季は低温、日照不足で冷害年となり、9月26日から27日にかけて洞爺丸台風が来襲。平均最大風速42mに及び、夜半から雨が加わり、田畑の被害甚大。特にりんごや桜桃の成木倒伏多く、りんごや梨はほとんど落果し、電柱や家屋の倒壊など夥[おびただ]しい災害を被った。

 昭和39年8月、台風9号、10号相次いで来襲し、記録的大雨をもたらし、余市川の本・支共に大氾らんし、仁木大橋、砥の川、月見、然別、大江、長沢などの各橋は皆決壊流失し、田畑の冠水や侵食流亡ならびに家屋の浸水も夥しく未曾有の大風水害に見舞われた。

 幸にも、近年大きな台風の来襲もなく、水害の難も遠のいたかに思える。しかし油断はならない。「災害は忘れたころにやって来る」ものであるという。

台風の被害によって落果したりんご

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p118-119: 48仁木町の冷害と風水害 --- 初出: 仁木町広報1985(S60).12

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