運動会の歌

 御代の光に照りさえて
 豊栄のぼる日の御旗
  門の左右にひらめくは
  我が運動の 会場ぞ
 来れ 同窓もろともに

 遊びの庭におりたたん
 学校の試験に勝をしめ
  今日の競争また勝たば
  徳育さえも修めつつ
 三徳兼備の人となり
 やがては国の 柱ぞや

 ここにいわゆる健全の
 精神やどす 身体は
  健全ならではかなうまじ
  ああわが友よ 体育の
 業[わざ]のかぎりを 試しみん
 来れ 同窓 もろともに

 この歌は明治40年前後、仁木小学校の運動会で歌われていた応援歌ともいうべきもので、当時仁木小学校に在学していた島田浪太郎翁(仁木町東町12丁目)が覚えておられ、今も矍鑠[かくしゃく]として筆者の前で歌って聞かせてくれた。

 その頃仁木村の発展は目覚しく人口も急増、従って児童数も200名近くに及び、運動会場も校庭が狭いので悩みのたねだった。折から明治35年度の運動会は仁木停車場付近の広場を借りて開催された。

 それは北海道鉄道(函館本線の前身)の敷設工事がすすみ、開通間もない仁木駅や鉄道員の公宅用の敷地が程よく地均しされてあって、運動会場にはもってこいの場所であった。

 頂白山を背に水田やりんご畑の真ん中を汽車が通る。まだ見たことのない汽車が間もなく走る。しかも仁木で停車する。早く見たい。そして乗ってみたい。大人も子供もその期待のふくらみが大きかった。その矢先き此処で運動会が開かれた。児童は声を限り歌った。村中総出の大賑わいであった………と、島田浪太郎翁は当時を語ってくれた。

 日頃鍛えに鍛えたちから
 見せるは此時いざ腕試し
 走りくらならアラビア馬よ
 高飛び幅跳びカンガル何の
 脚は金鉄 磨きをかけて
 フットボールは天へも達[とど]け

 腕は筋金 よりをばかけて
 綱はちぎれて引くたびごとに
 二十世紀の多事なる 世界
 日本男児の つとめは多い
 無病の身体に 無常のこころ
 鍛えよ身体を先ず第一に。

 この歌も明治から大正時代にかけて歌い継がれていた。運動会も仁木小学校の校庭で行うのが普通であり、その日取りも6月1日と大体決まっていた。

 国道ぞいに一の字型の校舎が立ち、その前庭をきれいに刈り込んだスモモの芝垣がコの字型に囲み、垣根にサクランボやポプラが並んでいた。

 年に一度の運動会は、村で一番忙しい時であった。荒耕[あらおこ]しした水田には水が満々と張られ、りんごの花はしきりと風に舞い、間もなく田植えや袋かけが始まる。村人らは忙中に一日の閑を求めて、会場に落ちつく。

 「公立仁木尋常高等小学校」と筆太に書いた門柱を囲むように、大きなアーチが立てられた。

 それは恒例の如く児童と青年団員らとの合作で、前日に学校林から集められた落葉松の新梢を使ったが、その滴るような緑と香気がむせるようにあたりに漂った。それはまた仁木小学校運動会の匂[におい]でもあり、今でもそれを懐かしむ人が少なくない。

 校舎をはるかにしのぐ大サクランボの太枝の上に桟敷が設けられ音楽隊をのせ、行進曲や遊戯などのメロディを流した。

 運動競技などは猟獣用の村田銃を大空に向けて「ガッテンショー(合点[がってん]せよ)ドン」と、ぶっ放したので、1年生などは驚いて立ちすくむ者もいた。

 今のように「用意ドン」と紙玉のピストルになったのは筆者の記憶では、それから数年後のことであった。因みに当時のスタート係は主に鳥海鶴松氏であった。氏は、当時北海道的なマラソン選手として知られていた青年であり、現在も仁木町然別の自宅で90余歳の高齢にもかからわず、植木などの手入に余生を楽しんでいる。

  ○待ちに待ちたる○
 待ちに待ちたる我が校の
  運動会は開かれぬ(ん)
 いざいざ友よ 同胞よ
  日ごろの元気試しみん
 ズドンと打ち出す号砲の
  待つや心のおどるなり
 後れず負けず駆け出して
  栄[はえ]ある勝どき挙げんいざ

  ○水無月晴れの○
 水無月晴れのやまは(頂白山の端)に
  白銀[しろがね]の日は黒がねの
 君が肉塊[ししむら] ただらせて
  韋駄天[いだてん]の意気 天を衝く

  ○梢は笑う○
 梢は笑う アップルの
  万朶[ばんだ]の花は 一せいに
 我らが心 あらわして
  勝ち誇りかに咲き満ちてり
 号砲一発 とどろけば
  胸の血しおも高くなり
 ランニングリレー何かあらん
 死して後やむ紅[あか](白)の意気
 振るえや振るえ振るえ紅(白)
 振るえや紅(白)の健男女

  ○垂り穂の稲の○
 垂り穂の稲の 里空の
  護り神なる 頂白山
 我らが心 あらわにして
  勝ち誇りかにそびえたり

  ○陽も麗かに○
 陽も麗かに 空晴れて
  仁木平原に風かおる
 頂白山は峰高く
  四隣の草木 春深し
 往古ギリシャのオリンピック
 それにも勝る今日の日よ
 五百の健児 集りて
  昂然[こうぜん]の意気 天を衝く
 日ごろ鍛えし 我が腕[かいな]
  みせるは今ぞ この時ぞ
 誰をか恐れることやある
  誰をか恐れることやある

 大正時代の終り頃から昭和初期にかけては、当時の世相の反映か青年団員などによる町村対抗陸上競技会などが活発になった。それにつれて小学校の運動会でも、紅白対抗競技などが盛んになり、その応援歌も明治時代からの単なる運動会応援歌に止どまらず、次々に新しい歌が生まれ、その歌詞も郷土色の豊かなものが目立つようになった。

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p14-17: 3運動会の歌 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).3,4

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