大正時代の仁木小学校

1.校舎と校庭

大正時代の仁木小学校は、木造柾ぶき板壁の平屋建てであった。

 教室が8つ、教員室1つからなる一の字型の校舎で、その両端には児童玄関があり、やや中程に教職員や来賓専用の正面玄関が大きく構えていた。

 明治の末に、校地を広げ校舎を増築したとはいえ、全体的には老朽化した箇所が多く、ことに教室などは戸や窓枠のひずみが目立ち、冬は隙間風や、時には雪が廊下や教室内にまで舞いこんだ。

 雨の日などは床に雑巾をひろげたりバケツを据えるほどで傷んだ屋根から雨漏りがした。

 大正11年の秋、仁木小学校にはじめて広い室内運動場が建てられた。待望久しかっただけに児童生徒の喜びは殊更であった。次いで大正12,3年頃であったか、雨漏りに悩まされた校舎の屋根が全面トタンぶき(亜鉛ぶき)に変わった。朝夕まばゆいばかり銀色に輝いて児童の心はおどった。当時トタンぶき屋根は役場も郵便局も仁木村中どこにも見当たらなかったのであった。

 校舎のまえには校庭が広がり、それをきれいに刈り込んだスモモの垣根がコの字型に囲み、サクランボやポプラの並木が沿っていた。

 校舎に向かって左側がサクランボ、右側はポプラ、それに正面玄関わきに大きなサクランボが1本、それは当時北海道で一番おおきいだろうと言われていた森家(現、北町8丁目)のサクランボの巨木に次ぐ大木であった。幹の太さも大人の手で二抱え余りもあり、その樹冠も校舎をはるかにしのいでいた。

 黒紫色の甘い実が毎年みのったが、余りにも高いので下枝にだけしか手がつけられなかった。

 垣根ぞいに並んでいた十数本のサクランボも早生[わせ]や晩生[おくて]さまざまあったが、これも毎年のように実をつけた。ある時はそれを売って校具などの購入費を補ったり、ある時は最上級生が木に登ってサクランボを採り、全校生一同で室内運動場に集まって食べ放題したこともあった。

 その後、スモモの垣根もいつしか木柵に変わり、ポプラは余りにも伸びすぎて日陰になるばかりか台風などに危ないとして戦前に伐り倒されて生徒用の裁ち板などに利用され、玄関わきの大サクランボの木も戦後の台風で倒伏した。

 長い間、仁木小学校の二大名物であったサクランボの大木と熊の剥製、その熊も盗難にあって今はない。
 現在、校庭の南隅に梅の古木がたった1本取り残されている。ここは吉野ザクラや松にとり囲まれていた奉置所わきにあたり、近くには小屋根をかけた井戸もあった。

 筆者が大正10年4月に仁木小学校へ入学した年、この梅の木は花や実をたくさんつけていた記憶がある。恐らく植えてから15,6年は経っていたのであろう。であるとしたら現在までに80幾つかの年輪を重ねているはず。

 最近、この梅の古木のかたわらに、町長島本虎三氏の筆になる「風雪百年」の石碑が建った。梅の大枝は払われ太い切り株が残った。しかしまだ死んではいない。樹勢の強い梅の木のことである来春きっと芽をふくであろう。

 そこで一つ、この切り株のそばへ後継の苗木を植え、古梅からの芽と接木したら、80余歳の梅の古木が見事に回春するのではなかろうか。

2.終業式・卒業式の歌

当時、仁木小学校の学期末や学年末に行われた儀式であり、式日にはそれにふさわしい式歌があった。

 夏休みは児童生徒にとって、昔も今も同様たのしくそして待ち遠しい。

 今年も今は休みどき
  しばしは休め人々よ
 山路に滝を見るもよく
  海辺に潮を浴[あ]むもよし

 当時は休暇中、おさらい帳と呼ぶうすい学習帳がたった1冊、1日1ページずつ1カ月かけて書きこむだけでよく、あとは何もない気楽さ。いわば勉強は二の次、思う存分遊びまわり身体を鍛えることに専念すればよかったと言ってもよい。登山や海水浴で、まず体力の増進を図るのが目あてであった。

 年の瀬もおし迫った12月25日は第二学期の終業式と決まっていた。冬休みとお正月が重なって楽しみはいやが上にも増し、じっとしておられない子供心が式歌を高らかにはずませた。
  
 今年も今は暮れんとす
  しばしは休め人々よ
 又来[こ]ん年も新しく
  学びの道にはげむべし

 1月1日は三大節の一つ、小ざっぱりした服装に改め学校に出て新年の儀式歌を唱い、1月2日は家で書初めぐらい。あとは毎日のように兄妹らや友達と双六[すごろく]や、かるた取り、遊びあきたら外に出てソリすべりなど……、正月はアッという間に過ぎてしまう。

 仁木小学校の卒業式は、毎年3月23日が恒例であった。

 卒業式は、卒業生はもちろん在校生(修業生)にとっても、なにかしらうれしさの中に一抹のさびしさが漂うものがあった。当時、仁木小学校の卒業式歌は「仰げば尊し」や「蛍の光」などあまり歌われなかった。

 年月めぐりて早ここに
  卒業証書受くる身と
 なりつる君らの嬉しさは
  そもそも何にか例うべき

と、最初に在校生が歌えば、それに答えて卒業生、

 我らはこれよりいや深き
  学びの道やなりわいを
 つとめはげみて御恵[みめぐみ]に
  報いまつらん今日よりは

 そして、卒業生と在校生の合唱がこれに続く。

 朝夕親しく交わりし
  嬉しき思いさながらに
 別れて幾年[いくとせ]へだつとも
  互いに忘れず忘るまじ

 歌が終わっても満場水をうったように、やがて修礼の合図で着席し、やっとわれにかえる。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p142-145: 60大正時代の仁木小学校 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).12, 1987(S62).1

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