七曲りと言うところ

 国道5号線を小樽に向かう観光バスが大江小学校を過ぎるころ「・・・左に見えるは鮎の棲む清流余市川、それをまたいでいる小ぢんまりした橋、ごらんの様に真直に架かっているのにその名は七曲り橋・・・」と、ガイド嬢がシャレを飛ばしていたが、もう10年余りも昔のことである。

 試みにこの七曲り橋を西へ渡ると程なく山地が迫り、その麓を函館本線が走っていて道路は行きづまる。この沿線の狭い平野一帯が「七曲り」と呼ばれていて崖くずれや洪水に悩まされ続けたところで、かつて「大江村大字山道村字下山道七曲り」と称していたが、現在は大江1丁目の西端を占めている。

 大昔の余市川は現在の位置よりも西寄りの山すそを洗っていた。ある時はその激流が岩を砕いて崖をつくり、ある時はまた大量の土や砂を運んで低地を埋めた。こんな繰り返しが長い間営み続けられたことであろうか。そのため山麓は岩肌を露わにした急な崖がうち続き、その下を余市川の奔流が蛇を這うようにうねった。

 安政3年、余市・岩内間にイナホ峠越えの新道が開削されたが、この険阻な七曲りを避けて通ることはできなかった。道は岩かどをめぐり谷を迂回した。急な岩壁と余市川の曲流を巧にかわしながら文字どおり七曲りの新道が出来あがった。そして山道村や七曲りの地名もこの新道から生まれた。

 安政4年10月、箱館奉行の安間純之進が東西蝦夷地回浦のおり、ヨイチ運上家から差し出した「諸取調書上写」によると然別から七曲り付近について
「此処 椴[とど]其他外雑木有 年々番屋出稼共 家木 船木 漁木 薪造モ伐出 冬分 雪車[そり]ニテ引下 川流相申候・・・此処廻船 御昼所有 但廻舟向ニ煮売小屋有・・・」
と、あって七曲りから然別にかけての山々はトド松をはじめ有用な雑木が多いので、毎年鰊場の出稼人共に建築材や船材、漁用の木材から薪にいたるまで伐木させ、冬分は雪車(雪ぞり)で余市川のほとりまで引き下ろし、春の増水時を待って筏やその他で川流しした。また、余市川を往き来する舟便もあって、舟つき場には昼食所やその向かいにはモッキリ酒(盛りきり酒)、煮しめ、小魚、かけそばから駄菓子や大福餅なども置いた煮売小屋があったと、当時の盛況がうかがえる。

 明治37年、函館本線(北海鉄道)が開通した。七曲りの嶮はこの際ある程度直線化されたが、今なお北海道屈指の鉄道の難所に数えあげられている。

七曲り付近の旧ヨイチ越え山道の跡

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p88-89: 36七曲りと言うところ --- 初出: 仁木町広報1984(S59).9

0 件のコメント :

コメントを投稿