ブラキストンの見た仁木町

 ブラキストンは、イギリスの軍人であり、動物学者であるが、幕末から明治にかけて箱館に住み、津軽海峡が北海道と本州との動物分布上の境界線(ブラキストン線)をなしていることを発見したり、北海道の各地を巡って書いた旅行記(『えぞ地の旅』)をイギリスで発表したりした。中でも明治2年の晩秋、ブラキストンは単独で余市から仁木を通って岩内へぬけたが、120年前の仁木町あたりの様子が生き生きと書かれていて、当時を知るに好資料と思う。その旅行記の一節を抜いてみる。

 余市川は、岩内の方向の山々から流れる。岩内へ行く道は川の谷を少し上るが、やがて谷を東にみてそこを離れる。エゾの地図によるとそこで得た情報通り、この川は長くてその源流は石狩川の南の幾つかの支流の源近くから流れてくる。余市の村は運上屋の少し西の方にある。

そこ(浜中町や港町)では家と漁小屋が並ぶ平らな海岸はまるく曲がって湾の北側の高地になった岬(シリパ岬)へ続いている。

 余市には役人が2人駐在していてその1人は非常に話し好きで親切で、その夜は私のために実にぜいたくな食事を準備してくれた。

 翌朝、ずいぶん貧弱な馬(ドサンコ)が1頭来るが、このひどい馬が山(稲穂峠)を越え西海岸の岩内まで、荷物と私を運ぶことになっている。案内の人を残して荷造りさせ、私は先に歩いて出発した。雪とみぞれが降っている。余市の村を少し行き、それから(豊丘の)泥道を通って小さな川(ヌッチ川)の谷を上っていく。次々と山(桐谷峠)を越え小さな谷(砥の川)を下ると余市川の大きな谷へ入る。道路が大きな谷に入る所(トマップ)に家が1軒あって、それから1,2軒過ぎると然別という所へ来る。海からの距離は3里半である。そこには家が2軒あって然別川の両側に1軒ずつ建ち、川には木の橋がある。この家は旅人を泊めるものでかなりの大きさである。然別から道は谷を上り(七曲り)、小さな川を5つ6つ渡り、そして少しずつ上って行くと本流(余市川)を離れ南西(大江3丁目)に向かう。ある所は非常に歩きにくく丸太を敷いたり溝になっているが、泥は谷の下手の方ほど深くない。

 ルベシベは泊まる所の名前で、そこには2,3軒の家と幾つかの物置小屋などがある。距離は余市から6里。この場所は海からかなり高い所にある。そこには小さな川(ルベシベ川)が流れ、そこから岩内へ行く道はすぐ高く(稲穂峠)なって南西の方へ向かう。

 余市川の谷では沢山の木炭を作っている。そして木が沢山あるので薪[たきぎ]に切って川から海(余市)へ流す。林木は大抵大きな広葉樹で低い所に多く、下生えの笹がびっしりと生えていて、道を行くと前方がよく見えない。

 この川(余市川)のあちこちで、ヤスで刺して鮭をとっているのが目に入った。道具には2種類あって、1つは四つ股のヤスで、他の1つはアイヌの鉤竿[かぎざお](マレフという銛[もり])である。これで普通のヤスと同じように魚を刺すが、巧妙な仕掛けがあって、魚の重みがかかるとカギが逆になって普通の鉤竿の働きをする。そのため水が深い時、他のヤスなら逃げることがあるが、そのような心配はない。アイヌは鮭を刺すのが非常に上手で、時々たいまつを照らして捕る。

 ルベシベ(大江3丁目)の番をしているのは、たった1家族で、余市地方の請負人(余市運上屋)が経費を負担している。

 夜は(通行屋泊まり)大雨が降り、朝はとても旅行に向きそうでなかった。おまけに案内人が言うには、馬(ドサンコ)の調子が非常に良くない。荷を積むのに戸口まで連れてきたのを見ると可哀想に寒さで震えているので、乗るのをやめることにした。そこで馬が駄目になった場合の指示を与え、もし出来れば人か別の馬を雇って岩内まで荷物を運ぶよう案内人に言い、徒歩で一足先に出発した。1日中歩かなければならないと思い、また雪除け用に上に覆っていた物が邪魔になるので、鳥撃ち銃を丈夫なアザラシのカバーに入れ、荷物の包みの上にくくりつけ、前もって撃発雷管を抜き、撃鉄の下の火門座にカバーをしておいた。それまでは何時獲物が出てもよいように鉄砲は必ず自分で持って、弾丸をこめていたが、あいにくこの日に限ってそうしなかったのは不運である。最初の2,3マイル(1マイルは約1.6km)は未知の一番高い所(稲穂峠の頂上)まで登り道で、それから谷の下り道には山から流れる1本の川(国富へむかうシマツケナイ川)を2度横切った。

 山にはモミ(トド松)と広葉樹で覆われている。山と谷は勾配が急で土地が広くなると緩やかになり、そこには家が1,2軒建っている。そのまま下って行くと、道は左側で川(シマツケナイ川)を離れ、土の非常に柔らかい、また深い泥穴がある別の谷を行く。1軒の家(休屋)で休み、私の案内人と馬が追いつくのを待った。だが、やって来ないので降りしきる雪の中をまた(岩内に向けて)出発した。その後すぐ堀株川の本流に出た。これは岩内の北約3マイル(約4.5km)で海に注いでいる。道はずっと右岸を通り、それから堀株川の浅瀬を渡る。そこには橋の代わりに小舟が1隻ある。このあたり(現共和町役場付近)に家が何軒かと森林を切り開いた耕地(御手作場)がある。

 途中、多少の冒険があったのはこのあたりである。道を歩いて行くと両側に高い笹が生えている。やがて曲がったところへきたかと思うと、突然熊が3頭いる。親熊1頭、子熊2頭で道路の中にいてその距離は約20ヤード(約20m)、熊は全然驚いたようすがない。そこで私は大声をあげて手を振り、上に着ていた雪除けをパタパタと動かした。すると親の方は、後足で立ち上がり私をにらみつけた。

 この瞬間、銃と弾丸2発あればと痛感した。進むことも出来ないし、さりとて退却するのもおかしい。なんせ馬と鉄砲は何マイルも後ろだし、そして朝から見ていないからである。

 そこで私は、熊が道をあけるのを待つことにした。2,3分するとその通りになり、実にゆっくりと深いやぶの中へ入っていった。

 ところがちょうどその時、たぶん私の叫びにつられたのか、もう1頭の大きな熊が、これは雄と思ったが左手の笹やぶの中から、がさがさと出てきた。そして10歩くらい前に止まり、私をじっと見つめた。前と同じように驚かして追い払おうとしたが、人間の声や動作には全く無頓着なようである。こんな近くにおられては感心しないので、石を探したが道路には1つもない。そこで半ば乾いた土を手にいっぱい握ってこの獣にぶつけた。これでこちらが本気と分かったのか、あるいはまた十分好奇心を満足させたのか、ゆっくり歩いて行った。

 熊の冒険の後、岩内へ道を進んだ。岩内は堀株谷にあるが、川の左からかなりの距離である。そしてチェルノーゼ(肥えた黒土)の土の起伏した土地を越えていく。

 案内人は、岩内から約1里半の所で私に追いつき、我々はそこで休んだ。そこから小さな谷を横切ると、道は草の生えた広々とした土地の上を西の方に曲がり。海へ向かう。

 高い山が西側に続き、立派な羊蹄山が遙か南東にみえる。一種の草原の端で突然岩内の村へ出るが、そこには岬に守られた小さな湾がある。

 私は、今日ここで最高に悪い道の一つを約20マイルほど(約32km)歩いた。天気は悪く、そして思うに旅行には最悪に近い時期である。夜が迫り、これ以上行けなくなったので、その夜は(岩内の)運上屋に泊まった。

ブラキストン

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p186-189: 71ブラキストンの見た仁木町 --- 初出: 仁木町広報1988(S63).10,11,12

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