余市川流域の開拓

 幕末まで「石狩領余市持」と言われていた余市郡は、明治5年から開拓使札幌本庁の直轄地であった。

 明治12年11月、原野100万坪の貸与を受けた徳島県の開拓移住民117戸は、仁木竹吉氏に引率され余市川下流の平地に開墾の鍬を下ろした。明治14年、開拓使が現地を視察し、思いのほかの成墾状況に満足、その年の8月11日付けで仁木竹吉氏の功を賞賛し、この地を仁木村と定めた。

 明治14年4月、同15年6月、旧毛利藩家臣らは、仁木村の隣地に相次いで入植し、委員長粟屋貞一氏の指導で開墾に従事した。村名は藩公の遠縁に当たる大江広元の姓をとって大江村とした。

 明治17年、仁木・大江・山道の三村を併せて仁木村外二ヶ村戸長役場が仁木村に置かれ、戸長に鈴木誠志氏が任命された。

 明治17年、然別に鈴木某氏が30万坪の地の払い下げを受け、小作人を入れて農耕させたが、間もなく土地を田中平八に譲渡。

 明治19年、二代目田中平八氏は、然別鉱山の採掘に着手、同23年、掘基氏を社長に北海道鉱山会社を設立、同28年、精錬が開始され主として金・銀・鉛を生産、隆盛をきわめた時は、社宅や商店など300戸におよび私立小学校が設置された。

 明治23年、砥の川に徳島県人中浜某氏が移住し開墾のかたわら炭焼きに従事、同24年、余市の林長左衛門氏が砥の川の小学校付近の地、18万坪の貸下げを受け、11戸の小作人を入れ、同25年に13戸の移住者が入り、明治末年には53戸におよんだ。

 馬群別(銀山)は明治13年まで官有地であったが、旧山口藩毛利元徳氏が開拓使庁より地積80万坪の売り払いを受け、粟屋貞一、槇垰幾太郎、植松柳助の三氏がこれを管理した。その後、人夫50名を入れて木炭製造業を起こし、然別鉱山へ販売した。

 明治27年、兵庫賢人山川滝五郎氏が当地で地籍110万坪の貸下げを受け、移民を募集し開墾および杞柳[こうりやなぎ]栽培と柳行李制作に従事し、その拡張を図った。

 明治29年、愛媛県人久保勘次郎氏らは毛利元徳氏所有地50万坪を買い取り、同県人10戸を小作人として移住させ開墾に着手。その後も主に同県人の移住が増加し、明治末年には60余戸の尾根内部落が生まれた。

 明治28年7月、東京府出身の元木孫市氏は長沢の土地50万坪の貸付を受け、明治29年、同地に移住し、同年4月、小作人15戸を入れて開墾に従事。冬季は薪の伐採や木炭製造を行って収入を図った。明治34年には一応目的が達せられたので、個人に対し土地の一部を譲渡し、明治末には戸数60戸、人口330人におよんだ。

 明治35年4月、二級町村制が布かれ、仁木、大江、山道の三カ村は一村となり、大江村と総称するようになり、初代村長に田中久蔵氏が就任した。

 こうして明治末年までには余市川下流の旧黒川村(毛利農場)から仁木、大江、銀山、尾根内、長沢を経て赤井川村(大江村より分村)に及ぶ余市川流域のほとんど全域にわたって開墾が進んだが、これを推進したのは主に我々仁木町の先人の方々の力であった。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p206-207: 75余市川流域の開拓 --- 初出: 仁木町広報1989(H1).9

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