大昔の大江

 国道5号線が、通称水野の坂を下り、七曲り橋のたもとにさしかかると、行く手は大江2丁目から3丁目にかけての田園が広がり、小学校や保育所、それに農協や雑貨店などもとけこんでいて大江地区の中心地でもある。

 この付近一帯は、大昔から人が住みついていたらしく、開墾当時は畑のあちこりから鹿の角や獣の骨などに混じって石で作ったヤジリや斧、それに土器の破片などもたくさん出てきたと言われ、現在でも時おり発見されている。それらの遺物によると今から1千年から3千年くらい以前の先住民族の使用した物のようである。

 その後、山や野に獣を追い余市川に鮭や鱒を求めて移り住んだアイヌの人達も多かったようで、彼らは歩き易い川筋や山の尾根づたいを選んで歩いたが、それが次第に踏み固められ、いつの間にか踏み分け路になった。

 言うまでもなく、大江3丁目のルベシベは「峠道の沢」の意で、この沢筋がアイヌ時代の交通路であり、今の稲穂国道とほぼ一致している。少し離れているが、砥の川の奥や赤井川境に残っているイクートと言う地名は「鹿が・登る」で、アイヌの人達が鹿を追った道につけた名であった。

 大江橋付近のマコマナイ川は「山側・ある・川」の意であり、ピッパ川は沼貝や烏貝が多い川である。なお、ハッタラ(深渕)とかイチャン(鮭の産卵場・ホリ場)、メム(湧き水のある所)など、アイヌ達の漁場の名がやたらに多いのに驚くほどであり、今でもこのあたりは鮎の釣り場としてその漁期には毎年賑わっている。

 こうしたアイヌ地名からも彼らの生活文化の一端をうかがい知ることができると言えよう。

 安政4年の初夏、稲穂峠を越えて余市に向かった松浦武四郎は、「笹小屋(通行屋)を過ぎて本川(余市川)の端にでる。その幅5,60間水勢吼々[こうこう]なかなか舟し難し」と余市川の印象を『蝦夷日誌』に書いている。

 当時、開拓使顧問として来道していたケプロンは、明治6年8月、余市川から1kmほど離れていたルベシベの通行屋で休憩し「余市川は、今朝から我々が上ってきた川で、山(余市岳)から流れてくる可成り水量の多い急流である・・・その水音は、この静かな夕方遠くで聞くナイヤガラの滝を思い出させる・・・」と、『ケプロンの日記』にも述べられている。

 今の余市川は、水かさが著しく減り、その流れも弱まって往時を偲ぶよすがもないが、その流路は大江の低平地を抱え込むように大きくうねり、これを河岸の段丘が半円形にとり巻いている姿がみられる。それには幾百千年の歳月を費やしたであろうか。とにかく、余市川の激しい乱流が生み、そして育てたのがこの肥沃な田園になったのである。

現在の大江地区

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p210-211: 77大昔の大江 --- 初出: 仁木町広報1989(H1).11

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