ストーブのルーツを探る

 今日、ストーブといえば石油ストーブかガスや電気ストーブなどが一般できであるが、かつては薪や石炭ストーブの時代が長く続いた。

 ところでストーブが我国で初めて作られたのは150年ほど前の安政3年(1856)で、所は箱館奉行所であった。時に幕府は蝦夷地を再び直轄にし、北辺の警備やアイヌの撫育、農業開発の目的で調役下役元締の梨元弥五郎を宗谷に赴任させた。

 弥五郎は赴任に際して、初めて妻子を連れて女人禁制の厳しい掟があった積丹の神威岬を通過することにした。しかし船が岬にさしかかると暗雲が空をおおい、逆まく怒涛があわや船を呑まんとする荒れ模様になった。

 船乗り達は、さては神の怒りによる異変ではないかと恐れて「すぐに引き返してくれ………」と、嘆願したが弥五郎は聞き入れず、厳然たる態度で神威岩に向かい、「今、大君は国家のために蝦夷を開こうとしているのだ。何神といえども、これを阻むことができようぞ」と喝破して船乗り達を激励し、無事に神威岬を通過した。

 梨元弥五郎は宗谷赴任に先立ち、北辺の防寒対策として、カッヘル(オランダ語のストーブ)を採用することにした。そこで箱館奉行所在勤の蘭学者であり、五稜郭の設計や弁天岬砲台の築造者として有名な武田斐[あや]三郎と共に、おりから箱館港に停泊中の英国船内を見学して、カッヘルの設計図を作り、これを職人に鋳造させた。

 そのストーブは直径1尺3寸(約70cm)の円筒形で、上にはお椀形の蓋がのっていて全面に開き戸が2つあり、上は燃料口、下は灰出し口で、灰落としの格子(ロストル)が収まっていた。

 鋳物の技術が未熟なため、出来上がりの重さが86kgもあったという。

 鋳鉄製のこの大きな薪ストーブを持参して蝦夷地の各場所へ配給したり箱館の奉行所で試用した。

 安政3年11月箱館奉行村垣淡路守の公務日誌に「組頭河津三郎太郎より、カッヘルを差し出す、至って暖なり」とあって、国産のストーブが初めて箱館で焚かれた。

 しかし、幕末につくられたストーブも一時的な試みであり、北海道のストーブ製造にはつながらなかった。
カッヘル(ストーブ)の絵図面
(『安政3年辰3月、北蝦夷地御用留』による)

 明治維新となり、北海道の開拓が内陸に向けてすすめられ、家屋の改良やストーブの取り付けを奨励し工務局でストーブが作られるようになったが、それは明治5年、開拓使雇としてアメリカから来日したライマンが、幌内炭山事務所へアメリカからダルマ型ストーブを取り寄せた。その暖かさ、便利さに驚いた周囲の日本人が鉄板や鋳物でまねをしたのが、石炭ストーブの第1号だとも言われている。

 北海道の鉄道は、明治13年11月、手宮、札幌間が開通したが、アメリカから輸入した客車にはやはりアメリカ製のストーブが取り付けられていたという。

 開拓使が、家の寒地向け構造やストーブの設置を奨励したが、それは試みだけに終わり、移住者の生活が改善せぬまま開拓がすすめられていった。

 明治12年の秋、ほとんど着の身着のままの姿で入植した仁木村の移民らも、開拓使から鋸・鎌・山刀・マサカリ・鍬などと共に仮小屋作り料として金10円也の給与を受け、家族総出で笹ぶきの掘っ立て小屋を立てた。

 土間に枯草などを並べた上へ荒莚[あらむしろ]を敷き、戸も莚をつるした。

 そこで家族数人が起居し、暖房も炊事も居間のほぼ真ん中に設けたいろりの中の焚火だけに頼った。南国育ちの彼らにとって雪と寒さの中での冬の生活は、いかばかりであったか想像に絶する。

 開墾がすすみ、生活が次第に安定すると、夢にまでみた生まれ故郷と同じ型式の家を建てる者が多くなったが、その構造は防寒の備えのあまりない内地向きの和風建築で、相変わらずいろりに炉鈎[ろかぎ](自在鈎)を吊し、鍋や鉄びんをかけた形式の暖房であった。

 冬の夜などは炉ばたで充分暖まったうえに、アンカや湯タンポを足もとへ入れたり、中にはコタツを囲んで家族が一かたまりになって寝た。

 官公庁や学校、病院などは別として、ストーブが一般に出回りはじめたのは、大正時代の終わり頃で、鉄板製の薪ストーブは薪の他に仁木ではりんごの枝や落葉松の下枝など燃やしたが、間もなく石炭ストーブが出た。

 最初は投げ込み式のズンドー型であったが、投げ込み式のストーブは、1時間に2,3回も投炭しなければならず、そのたびごとに煤煙や灰が舞い、それに熱効率も悪く、家庭用暖房として適したものではなかった。

 対象の末年、ドイツから貯炭式ストーブが輸入されたが、我国では早速これを改良した国産第1号が出た。

 フクロクストーブと銘うって売り出されたこのストーブは、たちまち大好評となり、これを追うようにアタリヤ・センター・カマダなどが次々に出て道内各地で愛用された。

 昭和の初期から貯炭式ストーブと並んでルンペンストーブが道内各地で親しまれてきた。

 鉄板を円筒状に丸め、全面に投炭口は無く、上下に空気調節口をつけただけの簡単なストーブで操作がしやすく、どんな石炭でも焚けるうえに、途中で給炭しなくてもよく、しかも価格が安いので全道的に愛用者が多かった。

 ちなみに、ルンペンとは浮浪者や失業者などを指して呼んでいたが、ストーブの由来も苗穂駅でルンペンが、石油の空きかんで焚火していたのをヒントに作ったとか、石炭の投げ込み口が無いー食べる口が無い(ルンペン)など、いろいろある。

 昭和初年以来、長いあいだ家庭暖房の主役を果たしてきた石炭ストーブも、昭和40年代から石油ストーブに押されて急激に減少し現在に至った。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p216-219: 79ストーブのルーツを探る --- 初出: 仁木町広報1990(H2).2,3

0 件のコメント :

コメントを投稿