徳島県の県民性

 数年前のことである。仁木町内の小、中学校の先生方を前に「仁木町の自然と歴史」について講演した折り、某校の校長から質問を受けた。「仁木の人は一般にへらこいと言われているようであるが、その”へらこい”とは一体どんなことなのか」と。

 筆者は内心ハッとしたが、その場はなんとか繕ったものの後あとまで、心の奥にひっかかって離れないものがあった。辞書的な解釈ならともかく、それは単純に答えられる問題ではなかったのである。

 あれからもう5,6年経った。その間、徳島県をはじめ四国4県はもちろん、大阪、兵庫、岡山、広島、山口の諸県など瀬戸内海周辺を巡ること数回、その県民性にふれたり郷土史誌などの資料集めもした。

 へらこいとは徳島県(阿波)の方言で、一口に言えば、がめつくてケチなことであるが、我慢強い、悪賢い、などの意味もある。しかし同県内でも鳴門や海部地方では、賢いとか、上手(悪い意なし)などの意味であるともいう。

 徳島県出身の方言学者である金沢治[はじめ]氏によれば「へらこいとは徳島県地方の方言の中で最も特異の内容ある方言である。ある意味では徳島県の県民性をあらわす」という。

 明治初年、緒[いとぐち]について北海道の開拓も明治20年代後半になると移民の数は急に増加した。折から北海道庁ではその植民地の沿革と現状を調査し『北海道植民地状況報文』を刊行したが、中でも後志国編で仁木村の風俗、人情にふれて「村民悉[ことごと]く徳島県人なるを以て、郷国の風習を変せず、最も農業に巧みにして良く勤勉し且つ粗食に甘んじ、此点に於ては付近の郡国の模範たりと雖[いえど]も、徳義の念うすく淫[いん]風盛んに賭場[とば]行われ、風紀大いに廃頽[はいたい]せり、故に職に励み利益大なるにも拘らず常に負債に苦しめられるは惜しむべき事なり」と。

 同じく、隣村赤井川のそれについても「移民は徳島県人最も多く、愛媛、香川の2県これにつぎ………………その内、徳島県人は開墾の成績頗る佳良なれども、性質狡猾[こうかつ]にして農場主の最も統御に苦しむ所なり」と、あって赤裸々で手きびしい。当時の道庁殖民部の調査役員らの目には、徳島県移住民の性状がそのように映ったのであろうか。

 ところで、今から450年ほど前の戦国時代に書かれたと言われている『人国記』がある。これは戦国時代の武将達が隣国を攻略する際に、事前に敵情を知る虎の巻としたらしいが、それによると「阿波国の風俗は健気[けなげ]で知恵者が多く、意地は強いが人を騙したり強盗をする類はほとんどない」との意が述べられていて、当時の日本60余州中屈指の民力豊かな国であると他国からみられていたようである。

 その阿波の気風が、いつからどうして異なった目で見られるようになったのであろうか。更に探りを深めてみよう。

 天正13年(1585年)、蜂須賀家政が以前の領国であった播州平野の藍や塩を、そっくりそのまま阿波国(徳島)へ導入して以来、代々の藩主は極端なまでにその保護政策をとって専売制を確立したので、全国でも有数な富裕大名に数えられるようになった。

 そのため、浄瑠璃[じょうるり]や人形芝居、それに盆踊りなどの華美な風俗も徳島城下では繁盛し、それが明治の中ごろまでもち越された。

 踊りおどらば品よく踊れ
  品のよいおを妻にもつ。
 阿波はよいとこ蜂須賀様の
  御威勢踊りに立つ浮き名。

 この阿波踊りでは特に、「踊るアホウに見るアホウ、同じアホウなら踊らな損々」の一語に徳島県の県民性の一部が表徴されていると言われている。

 藍染の原料となる藍玉を仲立ちに、京都や大阪の郊外として、早くから商業化していくうちに、徳島県の人々は大阪と同じように、ものの価値評価を、「損と得」で決めるという習慣をもつようになった。

 特に阿波の北方[きたがた]と呼ばれている吉野川流域地方では、藍草や煙草など早くから商品作物の生産が発達したが、その藍玉や煙草、綿などの行商で、日本全国をまたにかけたが、そこで射倖[しゃこう]的な金儲けのコツをいつとはなしに覚え、「人を見たら、だまされまい」とする気風は都市だけでなく農村にも深くしみついたのであった。そのためこの県の人は大阪と同じようにガメツさ(へらこいとほぼ同義)がある。

 「へらこい」は商才に根ざした積極的な行動力をもった県民性を、皮肉をこめて言ったものであろうか。人はそれをずるがしこいと言い表して軽蔑する。
 しかし一方では勤勉で人情に厚く、親切で義理がたく、笑顔で人に接する気風があるので敵をつくることが少ない。

 とにかく徳島県の人には実行力がある。しつこくねばり強く一つの目的に向かって努力を惜しまない、という実用性が身についているとでも言えようか。

 ところで、仁木の町民、ことに仁木地区内は、徳島の県民性の血を多分に引く北方出身が多かった。そして勤勉で利にさといが、ややもすれば協調性を欠き、中には伸びよう、転換しようとする人間の足を引っぱるという気風があった。

 仁木町開基以来、110余年の星霜を経た今日、なおその余韻のようなものが感じられるのは筆者だけであろうか。

 ついでながら、筆者の両親は、いずれも徳島県吉野川流域のいわゆる北方の藍作農家出身で生粋の阿波衆である。従って筆者自身の血の中にも、その気風が漂っているのを自覚している。この一文はその反省の資でもある。



出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p232-235: 85徳島県の県民性 --- 初出: 仁木町広報1990(H2).10,11

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