仁木町の百年

 北海道は古くからエゾ地と言われてきたが、もともとエゾというのはアイヌやその他の民族の名の総称であって地名ではなかった。

 口エゾ、奥エゾ、東エゾ、西エゾ、北エゾ(樺太)などと呼んでいたのを、実は民族名を転用していたのである。しかしこれはまぎらわしいことが多いので、幕府時代から出来ることなら適当な名をつけたいと考えていたのである。

 明治2年7月、箱館奉行が廃止され開拓使が新設されると、エゾ地探検家で知られた松浦武四郎が「道名の義について」の意見書を提出した。そして日高見道・北加伊道・海北道・海道島・東北道・千島道の6つの道名候補を選出し、その中で北加伊道が最も適当であると考えていたところ、これが採用された。この「加伊[かい]」が「海[かい]」となり、ここにはじめて北海道という名称が生まれた。ついで胆振・石狩・後志など11の国名や郡名なども松浦武四郎の建議によってつけられたものであるという。

 ところで、余市はもと余市川の左岸を下[しも]余市、同じく右岸を上[かみ]余市と呼んだが開拓使以後は、現在の余市郡一円(余市・仁木・赤井川)を余市と総称していた。

 明治12年11月、徳島県移民団117戸が仁木竹吉氏に率いられて余市へはいり、余市川の下流右岸の平地に開拓の鍬を下ろして仁木村が誕生した。

 ついで明治14年4月、山口県から旧毛利家家臣等32戸が余市川中流の右岸に入植し、藩祖大江広元の姓をとって大江村とした。

 翌年、開拓委員長粟屋貞一氏は馬群別、尾根内を経て赤井川上流一帯を探検し、その開拓地として適することを発見したが、その後馬郡別、尾根内、長沢、赤井川は大江村の一部として開拓がすすめられた。

 明治17年秋、仁木村ほか二カ村戸長役場が設置され仁木、大江、山道の3カ所が管轄された。
 明治26年11月、槇垰[まきたお]幾太郎氏が人夫50人を入れ、木材の伐出しや木炭生産を興し、同27年、山川滝五郎氏が杞柳[こおりやなぎ]栽培および柳行李[こうり]製造をはじめて共に馬群別の開拓に貢献。

 明治29年、元木孫市氏が長沢を開拓、同年久保勘次郎氏は尾根内の入植開墾に当たった。

 明治35年4月、二級町村制が布かれ仁木・山道・大江の3カ村が合併して大江村となった。仁木村が本村というべきであったが、後から開けた大江村が三村合併の際、いち早く運動して大江村となったのである。

 大正14年4月、山道村の一部下山道(余市豊丘)部落が大江村から分離して余市町に合併した。

 昭和2年、一級町村になり、昭和39年11月、従来の大江村(仁木・大江・上山道)を仁木村と改め、ついで町制を試行して仁木町となった。

 思えば100有余年前、余市川のほとりに開拓の鍬をうち込んで以来、仁木、大江、銀山、尾根内、長沢をへてついに赤井川まで余市川全流域にわたってその開拓がすすめられた。その間、幾たびか土地の分合や行政地名の改変などをみて今日の仁木町にいたった。

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出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p108-109: 44仁木町の百年 --- 初出: 仁木町広報1985(S60).7

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