温床稲苗をはじめて試みた人

 昔から米を作るには、種籾[たねもみ]を水田に直播[じかまき]するか、苗代で育てた水苗を田植えするかであったが、仁木村では昭和5,6年頃から温床稲苗づくりが広がりはじめ、昭和10年すぎには殆んど温床栽培に変り、その後幾度か冷害年もあったが、以前の如き皆無に近い収穫は影をひそめ、水田農家の経済的安定に繋がっていった。

 この温床稲苗をはじめて試みた人、それは故木内嘉右エ門[きうちかうえもん]氏であった。嘉右エ門氏は、明治9年5月、父松蔵氏の長男として徳島県板野郡鯛の浜で出生、明治28年20歳の時両親に従って仁木村に移住した。

 はじめ尾猿内(旭台)に入植したが、その後故あって現在の南町1丁目にあった堀北為吉氏の地所へ居住することになった。時に大正3年の晩秋、嘉右エ門氏は39歳の働き盛りで、一家7人、二男三女の父であった。

 約4haに及ぶこの土地は、1ha程の水田と他は畑地で中に古いりんごの木が残っていた。

 明くる年からそこへ食糧用の裸麦を蒔き、大福豆や豌豆、それに大豆や小豆、馬鈴薯などを耕作した。時恰も欧州大戦のさ中で豆類や澱粉など数年続きの高値で取引され、農家もその好況に乗って一息ついた。しかし、それも束の間、終戦と共に来襲した世界的大恐慌の波にのまれ農村など一たまりもなく押しつぶされていった。そんな中で木内嘉右エ門氏は大正11,2年頃からぶどうの増殖、胡瓜や茄子などの野菜づくりを手がけて、農業経営の転換を図った。野菜づくりの温床は主に稲ワラを下敷として使っていたが、丁度胡瓜や茄子苗の移植時期であった。その時、苗床の中に偶然にも稲の苗が生えているのを発見した。敷きワラに付着していた籾が芽を出していたのである。

 一瞬驚き、且つひらめいた氏は、その中から良苗を選んで3株を水苗と同時に田に植えて試作した。野菜温床から得た3株の稲苗は、根付きがよく分けつも草丈も結果状態なども優れ、入穂も大きく籾の色もひときわ黄金が濃く、思いの外良好な実りとなった。

 当時の米作は、反当5俵収穫することは稀であった中で試作苗の発育は抜群で水苗との差は、反収2俵近くもあるものの如く見えた。この苗は当時食味が最も良いと言われていた大正井越種であった。

 初年度の好成績に力を得、次第に作付けを増し、品種も南早生・野崎・石狩白毛・栄光と変え、ついで農林20号・富国・南栄・巴錦等と品種も改良され、技術も向上して増収記録を更新していった。

 しかし、最初は苦労した。田植え間近になって急に根腐れや枯死が障害となり全滅に近い被害を受けたことが幾度もあった。

 後年これが日中高温時の灌水が冷水による生理障害であることが解るまで実に苦心したと言う。

 野菜苗作りから偶然発見した3株の稲苗の試作から、温床稲苗作りのきっかけをつくり、稲作栽培の安定に寄与した木内嘉右エ門氏の研究心とその熱意に頭が下がる。

当時の農作業風景

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p54-55: 15温床稲苗をはじめて試みた人 --- 初出: 仁木町広報1993(H5).1

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