岡本監輔略伝

 岡本監輔[かんすけ]は、北海道の歴史上著名な人物であるが、本町の開祖仁木竹吉の同郷で、しかも二人は青年時代からの親しい友人であった。竹吉が北海道開拓に身命をかける臍[ほぞ]を固め、開拓使長官・黒田清隆を動かし、仁木村の地を発見するまで、その助言や指導に当たった。いうなれば友人であり、先生でもあり、仁木村開拓の陰の功労者である。

岡本監輔(北海道大学附属図書館蔵)

 岡本監輔(文平)は天保10年(1839年)阿波国美馬郡三谷村(現在の穴吹町三島)に生まれた。家は代々農を業とし、医者も兼ねていた。

 嘉永6年(15歳)徳島に出、岩本贅庵[ぜいあん]の門に入り有井進斎と親しみ、藤井三渓より北蝦夷(樺太)の事情を聞き知った。この秋に母を失う。

 安政3年(18歳)京都に遊学し諸士と交り、清水谷中将の邸に寓し、後の箱館府総督・清水谷公考と知り合う。

 文久元年(20歳)江戸に出て間宮林蔵著『北蝦夷図説』を求め、これを読んで遂に「樺太を開発して北門の防備」に当たろうと意を決する。

 文久3年(24歳)幕臣竹垣竜太郎・羽倉鋼三郎から旅費を受け、箱館に行き奉行支配組頭・平山謙二郎の家に宿泊し、次いで北海道西海岸を出上し、宗谷を経て樺太に渡り、同島の南部を視察して箱館に戻り、奉行・小出大和守の命令を受け、再度樺太に赴き、のち箱館奉行の許可を得て樺太の奥地探検を企て、その東北端カオト岬を廻航し「日本領 岡本文平建之」の標柱を建てて帰った。

 監輔は「大いに樺太を開いてロシア人の侵略を防がざるべからず、而して在勤の幕吏因循[いんじゅん]共に語るに足らず」と心に期することがあって、江戸に出て画策することあろうと思い、樺太を発って室蘭へ戻り、調役・荒井金助から旅費を得、箱館奉行所に事を託し許可を得、江戸に入り、相識の人を訪ね歩いたが、長州征伐のため皆西に走って不在。よって京都へ上り、羽倉鋼三郎その他の諸名士の間を奔走して北辺の経略の事を述べ、賛同を乞うた。多くの有志がこれを可としたが、国事が多事多難であって、如何ともすることが出来なかった。

 監輔は一時郷里の阿波国へ帰り、開けて慶応3年上京して侍従・清水谷公考の家に寓した。たまたま山東一郎らが来会し、共に”北門社”を結成し、同士を募って北地(北海道・樺太・千島)のため尽力することを約した。

 時に明治元年、鳥羽、伏見の戦いで旧幕府は敗れ、戊辰戦争が開始された。

 岡本監輔はすでに樺太を一周し、全島各地の地形、気候、産物などをはじめ、原住民の風俗や習慣それに日本やロシア人の活動状況などを調査し、『北蝦夷新誌』を著すとともに、青年公卿[くげ]清水谷公考[きんなる]に「樺太方面が全く放置されていること、それに乗じてロシアが樺太を併呑[へいどん]する危険がある」ことなど力説し、朝廷として早く手をうつべきであることを献言させた。

 明治元年(1868)4月、この献言が入れられて明治政府は、箱館裁判所を設置し、清水谷公考は総督に、岡本監輔は箱館裁判所判事に任命され、樺太行政の全権を委任された。

 監輔は箱館で農・工民200余人を集め、これと官吏10数名を引率して樺太大泊に公議所を置いて新政をはじめた。

 樺太島内の各要地に出張所を設け、警備を厳にすると共に、漁場の開拓・山林・荒地の開墾など産業の開発を図り原住民の生活安定に努めて治績をあげた。

 しかし、同年10月、箱館が榎本武揚らの旧幕府脱走軍に占領され、翌年5月に平定されるまで北海道との航海や通信が絶たれ食糧もまた欠乏、流言飛語が乱れとんで人心は恐々たる有様、その上ロシアの軍艦が来航し大泊(クシュンコタン)の役所近くに兵舎の建築工事などをはじめた。

 監輔は厳重に抗議したが、現地交渉では到底解決できないと考え政府に報告し事を決すべくそのため一旦帰国した。

 明治2年7月、箱館府を廃して開拓使が設置されると、監輔は開拓使判官に任じられ、8月には外務御用係兼任となりロシア対策に当った。

 同年9月、監輔は東京で募った農・工民300人を率いて樺太大泊に到着、直ちにロシアと交渉を重ねたが、ロシア兵は我が国の抗議を無視して不法をやめなかった。

 明治3年2月、樺太開拓使がおかれ5月には黒田清隆が開拓使次官に任じられた。

 同年7月、樺太を視察した黒田は「ロシアの南下する勢いが盛んであるから今後3年間持ちこたえる事はできない。国力の差が違い過ぎるから今日どうすることもできない」と考え、ロシアと和親の約束をした。

 岡本監輔は、黒田清隆の消極的政策と全く相入れないので熟慮の結果、辞表を提出し位記も返上して明治4年3月帰京した。

 しかし、監輔の北地を憂える心は深く、著書によって有識者に呼びかけるべく『窮北日誌』や、『北門急務』などを刊行した。

 明治8年5月、樺太・千島交換条約により樺太は遂に放棄された。

 その後の監輔は、学校教育や著述に従事したが、終生北地の開拓と、防備を念願してやまなかった。

 日露戦争のさなか樺太の回復の知らせを聞かないうちに、明治37年11月、東京で病没した。行年67歳、特旨により正五位に叙せられた。

 監輔の生家は、徳島県穴吹町に現存し、記念碑があり、また徳島市新町橋付近には監輔の胸像があるという。

「竹吉翁遺稿」より岡本監輔に北海道移住を推められた一節

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p18-21: 4岡本監輔略伝 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).5,6

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