仁木小学校は最初、仁木村32番地(現在の北町2丁目仁木消防支署所在地)に、柾ぶき平屋30坪の一教室だけの建物で、児童数男女合わせて38名。この年は小学校令が4月に発布せられた年で尋常科4年制の義務教育であった。
最初の教員は森田常之進1名で次の年は富田耕作が就任し、児童数は56名となった。
明治24年(1891年)には児童数も増えて開校時の2倍72名になり、余市郡役所から係官が来校して卒業認定試験とも言うべき大試験が行われて簡易科卒業生5名を出すことができた。仁木小学校第1回の卒業生である。児童数が年々急増の一途にあったので校舎が狭くなっていき、明治25年10月には校舎の増築が行われ、次いで明治26年から学級増加し2学級編成になり、教員も2名となった。
明治28年(1895年)3月、小学校に関する新しい学則が実施され、仁木尋常小学校と改称された。
明治31年(1898年)には、開校当時間に合わせに建てた校舎であったので、腐朽がひどくなり改築の必要に迫られ、仁木村24番地(北町4丁目現校地)が校地に決定してそこへ移転改築の運びになった。校舎は同年9月22日に起工、11月28日に出来上がった。建坪72坪5合、教員住宅10坪半、それでも今までのものとは比較にならぬほど立派なものであったという。その費用は1,800円で、内1,000円は村費、800円は父兄の寄付金によった。当時の建築委員森源作、木村喜平、林伊平各氏が随分と骨をおったといわれている。
明治34年(1901年)、小学校令改正実施に伴い、4月から従業の修身、国語、算術、体操に唱歌と裁縫(女子のみ)の2教科が加わり学習科目は6教科になった。
この頃、仁木村の発展は目ざまし区、人口も急増し転入生も増え、児童数も150名を越える状態となり、校舎増築の必要に迫られた。
当時の学務委員であった野村為次郎氏、坂東茂氏らの努力もあって増築費500円が計上され、明治34年12月末には25坪の増築校舎ができ、明治35年4月からは3学級編成、児童数191名、教員は三谷固一他2名となった。
明治40年(1907年)4月、高等科が併置されて名称も公立仁木尋常高等小学校となった。この年、東側の隣地1反8畝を買収し70坪の校舎を増築、その費用1,500円余。
明治43年(1910年)4月、7学級編成、同年2月、西側の隣2反を500円で買収し校地は合わせて5反8畝となった。
明治44年7月、校舎60坪増築、教員住宅20坪改築、その費用1,500円余。教職員は学校長林駒太郎他6名、児童数350名となった。
大正11年(1922年)、待望久しかった室内運動場が建てられ鉄棒や肋[あばら]木、跳び箱なども設けられて児童は休み時間や体操の授業が一層楽しいものになった。
昭和10年(1935年)、青年学校が設置、昭和16年(1941年)、国民学校令発布、初等科、高等科合わせて8学級、児童数四百数十名に達した。
終戦後の新学制により現在にいたるが、昭和31年(1956年)、仁木小学校は仁木高等学校と共に火災で焼失、その跡地を拡幅して現在の校舎が建てられた。
仁木尋常高等小学校、 昭和7,8年ころの撮影、当時、普通教室8、室内体育館1、教員室1 |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p140-141: 59仁木小学校の生いたち --- 初出: 仁木町広報1986(S61).11
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