銀山の開拓

 余市川の流域は、北海道の中でも気候や地味に恵まれた土地柄であったので早くから原住民がすみついていて、鹿や熊を追い鮭や鱒を漁って生活していた。

 幕末ころからは、余市川上流に砂金が産出するとの噂があったので、一攫千金の冒険家らがときおり川を遡ることもあり、また余市沿岸の鰊場に必要な薪炭材や船材建築材などを伐り出す山子[やまこ]や流送人夫が入りこんでいた。

 しかし、大規模な開墾がはじめられたのは、明治に入って北海道開拓使が設置されてからである。
 仁木町銀山地区は、もと大江村の一部落として開拓がはじめられたのであった。

 明治15年、当時大江村開拓委員長であった粟屋貞一氏は、同志の井関百合蔵氏と共に余市川をさかのぼり馬群別から尾根内を経て赤井川上流一帯を探検し、それぞれ農耕地としても開拓に適することを確認した。

 この探検の成果を機に、旧山口藩主毛利元徳公は、開拓使庁から馬群別の川沿いの平地81万坪を価格1,200円で払下げを受け、粟屋貞一、槇垰幾太郎、植松柳助の三氏がこれを管理することになった。とは言え当時の馬群別(銀山)の地はほとんど原始に近い密林に覆われていて、かつて探検家の松浦武四郎が稲穂峠を越えて余市に赴く途中の見聞を記した『西蝦夷日誌』に
「・・・此辺ヨイチ岳とシリベツ河源の間に当るよしなり。その間広大なる平野なり。魚類は鮭、鱒、鯇[アメマス]、カジカ、チライ(イトウ)多し、樹木はトド松、樺、楢、楓混りなり、、川筋岩石多くして舟は上りがたし・・・」
と書いたが、その当時とほとんど変わっていなかったようである。

 従って明治25,6年頃までは年々若干の薪材を伐採するにすぎなかった。

 ところが、槇垰幾太郎氏は、当時、然別鉱山の精錬用の木炭製造に着目し、明治26年の秋から人夫50名余りを使い各所に炭焼小屋を設け、立木を伐採し炭焼き事業に従事、ついに月産2万貫目に及び明治28年末まで継続した。

 ついで明治27年、兵庫県人山川滝五郎氏が地積150万坪の貸し下げを受けて開墾および杞[こうり]柳の栽培と柳行李[こうり]の製作を目的として移住民を募集した。

 一方、毛利元徳公所有地地は、愛媛県人久保勘次郎、福井県人河崎金兵衛、槇垰幾太郎の各氏がそれぞれ入手したが、自来各農場主は郷里やその他から小作人を募集して開墾につとめ、次第に墾成地を広めていった。

 明治34年には馬群別小学校が創立し、同35年、北海道鉄道が稲穂トンネル工事に着手、明治36年、山道駅が設けられ、同年8月には上山道から分岐して馬群別、尾根内、赤井川を経て小樽に通ずる植民道路が開削された。

 明治37年、馬群別郵便局、ついで38年1月には稲穂トンネル口に銀山駅が開設された。こうして交通、通信の便がとみに加わり、わずか10数年にしてうっ蒼とした林野が田畑や牧場に変わった。明治40年には巡査駐在所、同42年、森林看守駐在所、同44年、村医院が設置され、明治末年には戸数140余戸、人口約700人からなる純農村となって銀山地区の礎ができあがった。

銀山地区

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p146-147: 61銀山の開拓 --- 初出: 仁木町広報1987(S62).2

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