種川橋の界わい

 仁木平野のほぼ真ん中を蛇行しながら北に向かって流れている種川は、やがて国道5号線を横切って余市川の本流に注いでいる。

 その国道に架かっているのが種川橋であるが、元来この辺一帯は、大昔余市川が大きくうねり込んだ、言わばその古川跡が広がっていて水害に弱い所であった。

 近時、中の川を切り替えて一本流にし、その名も後志種川と改称。ついで国道5号線も低地に高く盛土しかつ直線化して、昭和48年11月、ここに長さ45mの近代的鉄筋コンクリートの種川橋が架橋された。

 種川橋は明治13年にはじめて架けられた。当時開拓使庁が官費で架橋したもので、長さ9間(約16m)、幅1間(約1.8m)の土橋で、橋桁[げた]の上に丸太を並べ渡し、その上に土をのせて踏み固めただけの粗末なもので人や馬がやっと渡れる程度のものであった。

種川橋(木邱橋とも呼んだ)
明治32,33年ころの撮影、橋の袂に木邱喜平氏が雑貨店を経営していた
(北大図書館北方資料室蔵)
やがて仁木から大江に向けて平坦な村里の道路が延びると、それまで官道であった山坂や、屈曲の多いヨイチ越えの山道はすたれ、仁木、大江間の里道が昇格して国道になり、人馬の往来も次第にこの新道に移った。

 道路や橋もおおいに整い、余市・岩内間には2頭立ての客馬車が走り、冬も客ソリが通い、地元の農産物などの動きも活発化し、加えて然別鉱山の好況は目ざましく、いやがうえにも交通量が増加した。

 仁木から大江にかけた国道筋の要所要所には、雑貨店や茶店なども並び、宿屋も数軒建った。中でもハッタリ(西平内)の輪島屋、仁木の種川橋近くにあったカクサン旅館など建物も大きく、宿泊や休憩客なども多かった。

 明治31年初冬、当時の小樽量徳小学校高等科生徒43名が、然別鉱山精錬所見学旅行の帰途、たまたま輪島屋旅館で休憩した際、温かい汁物のサービスを受けたという記録もある。

 仁木の種川橋のたもとには木村雑貨店が店をひろげており、カクサン旅館は多くの泊まり客で賑わったが、ことに海岸各地に鰊があがりはじめると、出稼ぎ漁夫や商人、旅芸人、それにやん衆相手の女達、そればかりでない博徒[ばくと]や、ならず者などももぐりこんで混雑したという。

 明治35年、然別・蘭島間に鉄道が敷かれ、明治37年、函館本線(当時は会社線)が開通した。言うまでもなく人や物資の流れは記者に移っていった。

 それから80余年の歳月が流れた。いま木村雑貨店の跡地あたりは仁木町民野球場に変わり、恒例のうまいもんじゃ祭りなどの催し物会場にも利用され、各地からの人出で年ごと賑わっている。その道路沿いには仁木町果樹観光センターが店を開き、仁木町福祉会の特別養護老人ホームも静かな川沿いに建った。

 カクサン旅館は、マサぶき屋根の2階造り。多くの窓には欄干があしらわれていた。明治の終わりころ、大野重平氏(忠重氏の祖父)の住宅となり、近年までその面影が残っていたが今はない。その隣に仁木警察官駐在所が建った。いま種川界隈は急速に変わりつつある。


かくさん旅館、屋号マーク

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p208-209: 76種川橋の界わい --- 初出: 仁木町広報1989(H1).10

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