大江村の開墾

 仁木町大江地区の開拓は、旧長州藩主毛利元徳[もとのり]公が、明治4年、廃藩置県のあと、旧藩士民の困苦窮乏を打開するために北海道の開拓と北辺の警備を兼ねて計画されたものであった。

 最初は、石狩国空知郡幌向太[ほろむいぶと]をと考えたが、この地は融雪期に毎年のように石狩川が氾濫し、水害のおそれがあることを聞き、改めて後志国岩内郡堀株[ほりかっぷ]川北岸の原野の地をえらび、相謀って「旧藩士民などの有志を移して開墾の業を起こし、一つは報国のため無人の原野を開き、一つはもって旧臣らに産業を授けよう」と、したのであった。

 明治13年2月、岩内郡の原野(現在の共和町発足地区の一部)110万坪の払い下げを開拓使東京出張所に出願し、同年の11月に許可された。

 ここにおいて毛利元徳公は、旧家臣であった粟屋貞一氏を抜擢して開拓委員長とし、開墾一切の事務を委任した。この知遇に感激し開拓の難事業に一身を捧げる決意をした粟屋委員長は、明治13年12月、北海道に渡って開拓使札幌本庁に赴き該地の割り渡しを請うた。
毛利家へ払下見込地の図(岩内郡堀株川北岸の原野)

 ところが、この地はすでに開進会社の出願地と重複している上に、そこには十数戸の入植者が居住していたので協議の上、やむを得ず取りやめにし、さらに余市川流域地方へ転向することに決め、次いで明治14年6月、余市郡山道村字然別向かいの林野300万坪の払下げを出願して、同年の8月にその許可を得た。

 当時の余市川流域は、早くから上流に砂金が出るとの噂があり、一攫千金を夢見る冒険家たちが後を絶たず、中流の山野は余市沿岸の鰊漁場へ流送する木材や薪炭材などを伐り出すキコリが多勢入山していた。下流に広がる平坦地では旧会津藩士らによる山田村や黒川村の墾成地が開け、仁木村では徳島県の移住民らによって開墾がすすみつつあった。

 さて、明治14年9月、粟屋委員長は委員3名、傭[やとい]人夫ら数十名を引きつれて現地に向かった。

 一行は、山道を余市から桐谷峠を越えて砥の川に下り、然別川を渡って石板(円山)から七曲りを経て山道村(大江3丁目)稲穂峠下の宿屋工藤林兵衛宅へ全員無事に辿りついた。

 まず現地に臨んで、明春入植する移住民の受け入れ準備に取りかかるため、区域を定め道路を開き、作業小屋を作り住宅や作業庫の建設に着手し、兼ねて開墾をも手がけた。

 こうして、年内には家屋4棟、作業庫1棟が落成し、キコリら数人を残して他の職人らを一時解雇し、でき上がった住宅には粟屋委員長はじめ委員らは家族を呼んで、はじめて現地で越冬した。

 年が明けて明治15年、雪どけを待って再び道路の開削、架橋、水路の築造、耕地の分割、家屋の建設などに着手し、同年の7月はじめには家屋が21棟落成し、ついで7月22日には第1回目の移住者21戸86人が来着して直ちに開墾に着手し、8月下旬から更に家屋の建築にとりかかった。

 これより先、作物試作の結果は良好だったが、本年移住者の来着が遅かったので播種の時期を失したため、その後は移住の時期を改めて4月とし、家屋は前年中に建築することに決めた。

 明治16年3月には、毛利家の本姓をとって正式に大江村が誕生し、同年4月には、30戸130人(独身者は適宜合併させたので実際は20戸余りとなる)が入植し、然別向かい(現在の丸山向かい大江1丁目)およびクツナイ(現在の宮の川付近)に分かれて住ませ、次いで明治17年4月、更に17戸を移住させた。

 ところでこの開拓計画は屯田兵制に従い、各戸に1万坪(3.3ha)の地を貸しつけて開墾させることにし、17坪半(58㎡)の住宅と旅費、農具を給与し、向こう3年間の米や味噌を与えて保護し、成墾のうえは小作料を取り立てる方針であった。

 ところが多くの先例がある通り、いわゆる士族の農法で成績があがらず、肉体労働の習慣が乏しいので農作業を厭[いと]う者が多く、もっぱら主家の毛利家に依存するだけで、開墾は一行にはかどらなかった。

 特に米や味噌の給与が止まってからは、困窮はさらにひどく離農者が後をたたず、入植10年にもなるのに独立自営のできる者は僅か10数戸にとどまった。

 そこで毛利元徳公は委員らと相計り、従来の方針を改めて新しく自作農たらしめようとして1戸分の地を15,000坪とし、従来の小作制度をやめて1戸分の地代金を128円70銭とし、これを10カ年の月賦で返済させる約束で、彼らを地主にしてやることにした。
丸谷健二氏所蔵

 人々は喜び、かつ安堵してその業に従事するようになった。

 しかし、その後もなお安逸をむさぼり、旧主に対する義務を果たさないで他に転出する者もあったが、多くの人々は明治35年までに払下代金を皆済ました。

 以後は順調に発展し、明治40年には徳島県や石川県民らの数戸を合わせて、戸数48戸となり、水田13町歩余り、畑地292町歩余りの耕地を所有するようになった。

 ここにおいて現在の仁木町大江地区の基礎ができあがったと言えよう。

大江村開祖粟屋貞一氏の記念碑(大江神社境内)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p212-215: 78大江村の開墾 --- 初出: 仁木町広報1989(H1).12, 1990(H2).1

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