中でも仁木地区内の開削は、登町から続くモンガク・フレトイ・平内へとほぼ東西に連なる高さ50m前後の緩やかな丘の上を縫うように走っているが、その間に平内橋・吉広[きっこう]橋・宝樹[ほうき]橋など3つの新しい橋ができあがった。
平内川の渓流に架かった平内橋は、その長さ65m幅員9m余りもある堂々たる近代的な永久橋で、その両たもとには仁木町のシンボルマークが2つずつ向かいあい、両側の欄干には120個余りの色鮮やかなぶどうの房が見事に浮きぼりにされている。
平内橋のたもと |
橋下を覗くと、イタヤやナラ・白樺などの雑木林の奥に、小さい滝が2,3段かかり、岩を噛む渓流の音がかすかに耳に伝わってくる。
昔の平内川の水量は今より数倍も多かったので、開拓時代には上流で伐り出した木材を流送して余市川に落とし、海岸へ運んで鰊場の用材や燃料にしたと伝えられているが、現在は仁木町の飲用水の源として、その水質の良さをほこっている。
平内橋 |
吉広橋はフレトイ川の谷壁を切り割って架けた30mばかりの橋である。
その切り崩された崖の下層は黄褐色の厚い岩盤でその上には砂礫まじりの層が乗り、鉄サビ色の赤土がそれを被っている。
下層の岩盤は太古の海底火山の堆積物からなる凝灰岩[ぎょうかいがん]であり、その上にフレトイ川から運ばれた砂礫層がのり、地表の赤土は赤井川火山の噴出物などからなるローム質の土で、りんごやぶどう畑がのっている。
吉広橋の下を要[かなめ]にして、北西の平地に向かって帆立貝を伏せたように扇状地が広がり、その扇端(先端)は種川の右岸にまで迫っている。
明治34年、当時の仁木村にも造田がすすみ、その灌漑用水路の必要に迫られ森銀之丞氏を代表に和田永吉・坂東友蔵氏ら10数名が共同し、フレトイ川の水を引いてこの扇状地の上を、ほとんど水田にした。
それよりさき、明治21年7月、安崎主馬蔵、戸島金蔵氏らが水車営業願書を出して、フレトイ川の水を引き柾ぶき15坪の水車小屋に直径10尺(約3m余)の木製水車を設け、石臼7個を備えつけて米や麦などの精白や製粉もした。その設計図によると水車小屋は吉広橋のすぐ下手[しもて]にあった。
吉広橋界わいの自然や開拓にまつわる話など取り上げるときりがないが、フレトイの地名も大昔のアイヌの人達が、ここの赤い土地につけた名残であり、付近の湧水池の周りには縄文時代の土器や石器の破片などが出てくるので、数千年の大昔、すでに先住民がいたと考えられる。
広域農道の開通は、ただに産業の開発や交通の緩和にとどまらず、ゆっくり歩いて自然を楽しみながら「開拓時代を偲ぶ」道で、でもありたい。
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p236-237: 86平内橋と吉広橋 --- 初出: 仁木町広報1990(H2).12
0 件のコメント :
コメントを投稿