カルデラの中の仁木町

 稲穂峠から眺めると尾根内・長沢・銀山・大江・然別にかけての谷底平野はきれいな環状で、その上には見事な水田や畑が広がり、ほぼ真中を余市川が時計廻りにぐるりと廻って余市湾に注いでいる。稲穂の連山もその急斜面を谷底平野に向けながら半円状にとりまいている。この様に山脈も川もそして平野も一様に環状を呈しているところは日本でもその例が少ない。

 このような地形は、古いカルデラの名残であると言われていて、隣村の赤井川カルデラ(盆地)に対して余市川カルデラと呼んでいる。カルデラとはポルトガル語の「鍋釜」の意味であって、火山の噴火口よりもはるかに大規模な地面の凹地につけられた名で、それが鍋や釜の形を思わせるからである。

 ところで、余市川流域付近は新生代第三紀末頃、海底火山が起こりいろいろな岩石や熔岩、火山砂、礫などが海底に堆積し、それが陸地となりさらに新しく火山活動があって、玄武岩や安山岩などが次々に噴出し、広大な火山性の山地を生成した。それは今から数百万年前のことと考えられている。ところがここにカルデラの陥没が生じた。

 このカルデラは今でもその内壁がすこぶる急でところによっては余市川床より200mも見上げる急斜面がある。この余市川カルデラの壁はその東半面は明瞭に見えないが、尾根内から銀山を経て然別にかけての西半面から推論すると、はじめは円形であったようである。そして注意すると然別駅の北に当たる五剣山の東麓に石英安山岩からなる大きな岩壁が鉄路に迫っているが、そこにはっきりと鏡肌[かがみはだ](断層が起こったとき断層面が磨かれたようにピカピカになっている)が見られることである。

 これは恐らく、余市川カルデラが陥没した際の余波として起こった断層であろうと言われている。なお、この付近を流れる砥の川や然別川もカルデラ陥没で生じた亀裂に沿って流れており、獅子の沢から旭台にかけた南向きの急崖も断層の仕業であろう。

 余市川カルデラの陥没に次いでその反動として第二の火山活動の時代がきた。そしてその噴火の中心は東方へ移動し中央火口丘として大黒山(現在の大黒山は当時の山体の一部である)が噴出し、余市川カルデラの底を埋めた。この中央火口丘の大黒山も今から数万年前にカルデラ陥没が起こったが、これが現在の赤井川カルデラでその直径4 - 5kmに及んでいる。余市川カルデラは赤井川カルデラの外側に当たり直径約18kmに及ぶ大規模なものである。

 洞爺湖や支笏湖カルデラのごとく湖水をもっていないが、阿蘇カルデラと同じくその谷底には国道や鉄道が走り、水田や畑をのせた沃野が展けている。

 仁木町はこの余市川カルデラにはぐくまれていると言えよう。

余市川カルデラー赤井川カルデラ(盆地)を、とりまくように余市川が流れている。それが余市川カルデラで、二重式のカルデラ構造を示している。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p34-35: 11カルデラの中の仁木町 --- 初出: 仁木町広報1982(S57).6

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