イナホ峠の高札

 然別の五剣山付近から大江・銀山・尾根内にかけての、余市川砂岩に連なる山々の秋は、いつもながら見事であるが、中でも稲穂峠にかかる旧山道脇の紅葉は圧巻である。

 今年の紅葉は特に美しかった。それは夏から晴天の日が多く、台風などの強い風が少なかったせいであろうか。

 その見事な紅葉の林の中に、見え隠れしている古い道筋。それは安政3年(1856)、今から120年程前に切り開かれた、岩内から余市へ越える旧山道である。その距離12里20町余(50km余)、道幅2間(約3.6m)。

 最初は人馬がやっと通れる道だったという。その安政3年前後のエゾ地は、かつてない多事多難な時を迎えていた。

 ペリーの黒船が箱(函)館港を下見にその姿を見せたのは、安政元年、そして翌安政2年箱館開港、安政3年の後半から北方警備のための陣屋構築、箱館周辺の放題構築等。一方、アイヌの慰撫、道路開削、漁業や農業の開拓など住民を安定させることに、力を尽くさねばならない幕府(箱館奉行)の政策は山積していた。

 これに比べて、西海岸の場所請負人は、鰊の好漁で資力があり、場所への出稼人夫も多く、労働力も豊かであった。

 従って幕府の開拓の趣旨を奉じた岩内・古宇・余市・忍路の場所請負人は、協議して余市山道を開削して寄付した。

 安政4年2月、箱館奉行村垣淡路守は、雪を踏んでこの新道を検分しながら、仁木を通って余市へ向かった。

 この年イナホ峠の山上、余市と岩内領境界に、高札[こうさつ]が高々と立てられた。幅4尺(約1.2m)で、高さ1尺5寸(約45cm)の板面には、
 「此ノ山道ハ、松前唐津内仁左衛門、新左衛門、枝ケ先町長左衛門、小松前町徳兵衛ガ御国恩ノ為トテ各々力ヲ合セテ安政三年秋切開キシナリ。其前ハ草木生茂リ流水道ヲ遮リ、タマタマ通行ノ者モイタク難渋セシヲ、今斯ク心ヤスク往来スルコト永久ノ功徳少カラズ仍而其由ヲ記シテ諸人ニ示ス」
と。場所請負人への顕彰碑ともみるべきであろうか。

 稲穂峠の見事な紅葉の陰に、幕末のあわただしかった世相のかけらが、今もひそんでいるような気がする。

イナホ峠の絵図(安政4年)、(峠上に岩内・余市境の標柱が立ち、その間に高札が掲げられた)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p44-45: 16イナホ峠の高札 --- 初出: 仁木町広報1982(S57).11

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