むかし海だった丘陵地

 余市川の下流に広がっている仁木平野は、誕生してから1万年にも及ばない沖積平野である。その東西を占めている高さ100m内外の丘陵地帯は、今から1千万年も大昔に起こった海底火山の噴出物からなっていると言われている。

 それを解く鍵とも言える地層がこの丘陵地帯のあちこちに顔を出している。仁木町東町モンガクの丘には客土用の土取場の跡が赤ちゃけた地肌を現しているが、近よってみると西向きの傾斜地が切り崩されて高さ10mほどの急な崖になり、そこには色とりどりの地層がほぼ水平に重なり、きれいな縞目模様が現れている。

 下層は白い凝灰岩、中層は青緑、黄褐、茶褐色などの粘土や細砂が固化した砂質凝灰岩、その上に赤褐色や黄褐色の砂質凝灰岩や小砂利混じりの層が厚く重なり、表土には火山灰が風化した粘性の赤土(重粘性土壌)が乗っている。

 なお地層中には溶岩の小破片や豆粒ほどの軽石(浮石)などが混じっていたり、「偽層[ぎそう]」と呼ばれている海底の砂の動きなどが、刷毛を引いた跡のような筋目になって地層に刻まれていたりする。

 これに似た地層はフレトイ川の下流や墓地の沢の崖ぶちなどにも露れているし、平内の入口や砥川小学校の裏山には真白い凝灰岩(ゼオライト)が目をひき、旭台(尾猿内)の崖にも砂質凝灰岩の層が厚く重なっていて、仁木中学校あたりからよく見える。

 この丘陵地帯の一角に露れた地層から太古の海底で起こった火山活動の様相ばかりでなく当時の海水の動きや棲んでいた魚介類なども読みとることができるし、農耕土の性質を調べる上でも役に立つ。

 丘陵地上は、明治20年(1887)頃から開墾が始められ、明治40年前後にはその大部分が農耕地になった。始めは大麦や雑穀類が作られ、大正時代に入ると、欧州大戦の好況にのって豆類や馬鈴薯などの栽培で全盛期を迎えた。しかし大戦後の不況に加えて耕地の地力消耗が目立ってきた。

 元来、無肥料で、過燐酸石灰をわずかばかり施肥するいわば原始的な略奪農法が繰り返されたためであろう。

 その後、やせ地でも穫れる燕麦[えんばく]や除虫菊などを試みて、昭和初期を迎えたが、結局その前後から農耕地は次第に影をひそめて大方が落葉松林に変わり、現在にいたった。

 丘陵上の耕地が放棄されてから半世紀、近年ここに土地改良事業がすすめられ農耕地再開の気運が見えてきたようである。

海底火山の噴出物が堆積した地層
仁木町東町モンガクの土取場にあらわれている地層

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p70-71: 27むかし海だった丘陵地 --- 初出: 仁木町広報1983(S58).12

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