阿波踊りの由来

 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々」と仁木町での阿波踊りも数年前父祖の郷里徳島県川島町と姉妹町の関係を結んで以来、年を追って盛んになり毎年のお盆には勿論、町の諸行事の中に色々と趣向をとり入れてそれに花を添えていることは、仁木町内のみならず近隣の町村でも好評のようである。

 ところで地元徳島ではこの踊り、明治末年までは「気違い踊」の名で呼ばれていたが、大正時代になって「喜誓踊[きちがいおどり]」と文字を書き換えることが多くなり、昭和になってから初めて「阿波踊り」と呼ばれるようになったという。阿波踊りはその踊唄の中で「阿波の徳島蜂須賀[はちすか]さまが、今に残した盆踊り」と唄っている様に、天正15年(1587)の徳島城完成の祝いで、蜂須賀家政が町人衆を城内へ招き入れ、祝い酒を振る舞い無礼講で町人が踊り狂ったのに始まると一般に言われている。

 しかし、それに異論を唱える郷土史家も何人かいる。それによると「三好記」には天正6年(1578)に盆踊りが行われた記録があり、また鈴木芙蓉や吉成葭亨が描いた絵から推して「盆の精霊踊り」から変化したものであると考えるのが正しいという。

 そして阿波踊りは文化・文政時代以降特に盛大になった。それは吉野川流域の藍業が隆盛になり、藍の豪商が他国の藍問屋を招待したり、パトロンとなったりした事が理由となっているが、一面民衆たちは藩の貢税の収奪によって苦しめられていたので、不満が鬱積しそのエネルギーのはけ口を求めたことから狂乱舞(気違い踊)へと転化したのであろうとも言われている。

 その後、時代によって幾度か盛衰はあったが、第二次大戦後まもない昭和25年(1950)、天皇陛下が四国巡幸のおり天覧を賜って以来ラジオやテレビで全国放送されたばかりか、瞬く間に神戸博を皮切りに仙台七夕祭(姉妹都市)、次いで東京日劇、大銀座祭、大阪万国博等々たちまち県外に進出し、北海道から九州まで「エライヤッチャ、エライヤッチャ」の大行進……。とにかく阿波踊りの美しさは集団美と個性美にあり、それは世界に類がないと言うが、昭和43年(1968)ハワイ移民百年祭、昭和44年カナダ遠征、同45年フランスそして西ドイツへと今や阿波踊りは徳島から日本の代表的芸能へ、更に世界の舞台にまでおどりでたのである。

 仁木町内には徳島県に心のふるさとを持つ人が多い。「見る阿呆」結構、「踊る阿呆」は大結構。そしてこの踊りの中へどしどし子供を踊りこませ、後継者養成に期待したい。
「阿波踊り」に幸あれ。

仁木町の阿波踊り(駅前通り)
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p16-17: 4阿波踊りの由来 --- 初出: 仁木町広報1981(S56).7

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