開拓時代と笹

 北海道の山野に自生している笹の類にはミヤコザサ、クマイザサ、チシマザサなどがある。

 ミヤコザサは太平洋沿岸の平地や丘陵地などに多く広がっており、日本海側や内陸地には少ない。
 クマイザサは葉が3枚〜9枚付き、茎はほとんど直立で草丈は1m〜2mに達し、葉のまわりが白くなるので隈[くま]笹とも言われる。また、冬眠からさめた熊が笹の葉を食べて体力の回復をはかることから熊笹と呼ばれたという人もある。

 チシマザサは特に雪の多い山地によく繁茂し、その背丈が2m〜3mにも及び、茎の根元が曲がっているので根曲り竹とも言われる。竹細工や豆類の手竹などに使われ、その新芽はタケノコと呼んで珍味で需要が多い。

 雪深い狩太(現ニセコ町)や昆布付近など昔から名産の声が高いが、かつては仁木町の然別や砥の川をはじめ大黒山や頂白山の麓などにもよい根曲がり竹が茂っていて、大福豆、中福豆、ウズラ豆などの手竹として盛んに切り出され、明治から大正時代にかけての豆景気を支えてきた。

 笹類は、開拓当初の家屋には欠かせない屋根ぶきの材料でもあった。

 安政3年の秋、開通したいわゆるヨイチ越え山道沿いの要所には宿泊所や休憩所を設けて旅行者の便を図ったが、ルベシベ通行屋の他は然別の人馬継立所や休み小屋やイナホ峠茶屋などはみな笹ぶきの屋根であった。

 明治12年11月、徳島県から仁木へはじめて入植した368名の移民団も、無人の荒野の中へ笹ぶきの仮小屋を建てた。

 最初、旧役場跡の地(現北町2丁目野村宏明氏宅隣)に約40坪の集会所を兼ねた事務所を建て、ついで移民各自の仮小屋造りにとりかかったが、それは草木も枯れ果てた初冬の小雪が舞う中での作業、しかも支給されたのは鋸、鉈、鎌と藁縄[わらなわ]ぐらいで釘1本、針金1本とてない。

 立木を伐り倒して柱にし、針や垂木をのせて屋根組みし、手近に茂っている笹を刈ってきて屋根をふくと共に壁面も笹を立てかけて囲う。土べたにも枯れたカヤなどと混ぜた笹を敷きその上に荒莚[むしろ]を延べて床とし、出入り口には筵戸を下げた。

 この笹小屋の中で明治13年の正月を迎え、各自割り当てられた土地の伐木作業に努め、開墾準備に追われながら春を待った。

 雪が解けると開墾がはじめられた。冬季間伐り倒した雑木は笹原とともに焼き払われ、開拓使庁から差し回した技師、技手15名、人夫120名は、洋牛60頭とプラオ、ハロー、抜根切断機械など携えて来村し、移住民の開墾を援助した。この時、牛の飼料に雑草や笹の葉が売れて思わぬ小遣銭を得たという。

 開拓時代の笹、書きあげればきりがない。その後も笹の葉は笹ダンゴ、笹飴、すしや刺身のツマなどに好まれているがそれにはビタミンKや安息香酸の抗菌防腐作用があり、笹茶は疲労回復や不眠症によく、笹の葉エキスは万病に利くといわれていて、今も愛用者が多い。

 笹類の茎も菜豆類の手竹に利用され、また削片版、繊維板、パルプ原料にも適し、タケノコとともに貴重な資源である。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p148-149: 62開拓時代と笹 --- 初出: 仁木町広報1987(S62).3

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