長沢開墾の聞き書き

 仁木町の長沢地区は、余市川の中流右岸にあって対岸の尾根内地区とともに町の南端にあたっている。

 長沢は赤井川カルデラ盆地の外輪山の南西部を占め、大部分が起伏の多い火山性土の傾斜地からなっている。

 この山地を長沢川、ポン長沢川、漁[いざり]別川などが削っていて、その下流に幾つかの平地をつくっているが、中でも長沢川は肥沃な沖積土を広げ、そこには長沢南地区の美田をのせている。

 ところで長沢という地名は、然別、馬群別、尾根内などのように昔はアイヌの人達がタンネ・ナイと呼んでいたようである。長沢とは「長い沢(タンネナイ:谷川)」のことで、現在の長沢川本流を指していた。それに注いでいるポン長沢川は「小さい(ポン)・長沢」で長沢川の支流の意味である。ちなみに然別川の本流も、もとは大然別沢と称していたし、その支流は今でもポン然別川と呼んでいる。

 さて、長沢地区の開拓は明治27,8年ころからはじめられた。

 明治27年、小樽の甲崎金次郎氏は漁別(現長沢西)に、10万坪余りの土地貸し下げを受け、小作人を入れて開墾をはじめ、明治28年には東京府(都)出身の元木孫市氏が現長沢南地区を中心に50万坪の土地貸付けを受け、明治29年に移住して小作人15戸を入れて開墾に従事し、明治34年には全部墾成地にして土地の付与をうけた。

 とは言え、開拓民の苦闘は続いた。間もなく鉄道は開通し、ルベシベ(現大江3丁目)から馬群別(銀山)を通り赤井川村から小樽奥沢へ抜ける植民道路も開かれたが、長沢はこの道路から分岐し更に余市川を渡らなければならなかった。橋を架けても出水のためにしばしば流され、あるいは川の上に鉄線を張りそれに箱をぶらさげて人が乗り、それに仕掛けた綱をたぐって渡る箱渡しを架けたが長続きせず、殊に春や秋の出水時には通路が途絶え、通信・運搬を欠くこと数日に及ぶことも珍しくなかったという。

 渡船場も長沢部落の経営であった。毎年部落民の中から渡し守が選挙で決められ、報酬として1年間金70円を支払い、渡し守においては部落外の通行者から1人につき往復金2銭を徴収した。

 入植者ははじめ、麦、稲きび、菜種など主として食糧自給作物を耕作していたが次第に大福豆、中福豆、大豆などの換金作物も取り入れ養蚕も行った。冬には薪材の伐採や運搬それに鉱山の雑役や行商に出る者もあった。しかしこの間には小作人の出入りが目立ってきたので、明治38年に至ってその対策の一つとして個人に対して土地の一部譲り渡しを行った。

 当時の移住者は東京や秋田が最も多く、徳島、仙台、能登がこれにつぎ、佐渡、福島、山口、伊予その他から寄り集まっていたが、その後も各地から来住する者が増して、明治44年には長沢の総戸数60戸、人口327人と、大江村地史に記録されている。

 なおこの稿は、銀山1丁目、鈴木藤市氏ほか数氏の談話の一部を参考にした。

長沢開祖元木孫市記念碑(長沢神社境内)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p150-151: 63長沢開墾の聞き書き --- 初出: 仁木町広報1987(S62).4

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