余市山道を越えた人々

■大谷光瑩一行

明治維新、当時徳川幕府にくみしているとみられていた東本願寺が、勝ち戦に乗じた薩摩や長州軍のために、あわや焼打ちという瀬戸際に立たされた。

 あわてた東本願寺新門跡大谷光瑩[こうえい](現如上人)は、「徳川家の由緒の儀は軽く、天恩の儀は重く候へば決して心得違い申す間敷く候、然かる上は如何なる御用も拝承仕まつりたく・・・」と、本願寺一山の運命をかけて勤王の誓詞を朝廷へ差し出した。

 これで焼打ちの難はまぬがれたが「如何なる御用も・・・」の誓いがやがて北海道開発の重労働となったのであった。

 明治2年(1869)、東本願寺は新道切開・移民奨励・教化普及の3項目をあげ、蝦夷地開拓を新政府に出願し、翌3年2月10日、北海道開拓御用現如上人一行180名は「勅書開発御用」の標札を高々とかかげて京都を出発した。

 道中、移民奨励の「父[とと]サン母[かか]サン行カシャンセ、ウマイ魚モタントアル、オイシイ酒モタントアル、エゾ(蝦夷)、エゾ、エゾ、エゾ、エジャナイカ」と、坊主頭をふり立てて歌いながら行進した。

 途中、廃物毀釈の時代相の中でいろいろ妨害にもあったが、各地の門徒から浄財の喜捨をうけたりしながら7月7日、函館に上陸し、直ちに東久世開拓使長官にあって道路開削を打ち合わせた。当時、最も要望されていたのは函館・札幌間を連絡する幹線で、函館から北上して噴火湾に出て壮瞥、尻別、定山渓を経て札幌に至る道路が選定された。

 7月11日、現如上人一行は函館出発。亀田、七飯、鷲木[わしのき]部落をへて海岸沿いに陸路長万部へ。ついで黒松内山道を越え歌棄、礒谷から雷電峠を超える難路の旅をかさね、7月19日には岩内に着いて智恵光寺に泊まり、翌20日、稲穂峠を越してルベシベの通行屋に宿泊。21日は七曲り、石坂(丸山麓)、然別へと山道を辿ったが、この付近は「馬行叶わず……」とも言われたほどの足場の悪い急坂が続き駕籠[かご]や馬を連ねた大行列の一行には雷電の険道につぐ難所だった。

 然別で大休止、トマップ、砥の川を経て一気に桐谷峠を越えて余市沢町へ下り、その夜は浜中町の柴屋平蔵宅で1泊。翌日早朝余市を発った。その茂入海岸をいく行列姿は三世広重が画いた大錦絵『餘市早発[よいちはやだち]』となって残っている。

 7月24日、札幌に無事着。25日現如上人と側近は折り返し京都へ帰り、新道造りは宇野三右衛門、尾崎半左衛門らの指揮のもとに残った僧侶や旧仙台藩士、和田村人夫及び多くのアイヌの人達の協力を受け、延べ5万3千人の労力と経費18,000両を投じ、1年有余の歳月をかけた。

 「夏は毒虫に襲われ、秋は餓狼と戦い、樹陰に露をしのぎ石を枕し雪を褥[しとね]として千辛万苦よく功をなせり」と『北海道通覧』などによってその難工事の様相が伝えられている。この道路は本願寺街道とも言われ、当時、札幌・函館間の唯一の道路として重要な役割を担った。

 昭和42年(1967)、北海道開拓100年を記念して本願寺街道開削の祖、若き現如上人の英姿を刻んだ像が中山峠の頂上に建立されている。

大谷光榮(現如上人)

■山田民弥

明治2年の北海道は、5月に函館戦争で榎本武揚らが官軍に降伏し、7月の管制改革で北海道開拓使が置かれ、8月には従来の蝦夷地が北海道と正式に改められた。

 この年、米沢藩士山田民弥は藩より10月5日付で後志国磯谷郡内の内見出張を命ぜられ、家臣6名と共に横浜からロシア汽船コーリール号に乗船、同月24日、函館に上陸、それより陸路を難行して11月24日、礒谷に到着。ついで開拓使から正式に礒谷領を受け取り領地の東西に境柱を建てた。

 山田民弥は、翌明治3年3月まで同地にとどまって勤務したが、その期間克明に書き続けた記録『恵曽谷[えそや]日誌』全3巻を残した。

 その中には当時の磯谷郡をはじめ後志、石狩各地の風俗・習慣・政治経済・自然環境などが興味深く記されていて当時を知る貴重な郷土史の資料となっている。

 明治3年1月24日、歌棄郡開拓使出張所より「米沢藩士山田民弥他三人、地理研究・地質点検の素志…」が聞き届けられ、後志国礒谷郡より石狩国石狩郡迄巡見御用の申し渡しを受け、2月6日早朝、吉田元碩、浜崎八百寿、番人常吉らを連れて石狩へ向けて発った。

 尻別川の氷上を渡り雪深い雷電峠を越える。その山中に湯の岱という湯元があり、岩内運上屋で建て置いた通行屋が1軒ここで昼餉[ひるげ]、温泉は渓流近くにあって硫黄質、硫化水素の臭いが漂う現在の朝日温泉である。

 岩内雷電山は礒谷側よりも険しく、「雪路嶮にして下り難し」とて各々トド松の枝を尻に敷いてやっとすべり降りた。後に大谷光瑩一行の人馬が積み荷もろとも転落騒ぎのあった所で、三世広重、一鮮斉永濯画く『雷電の危難』と題した大錦絵となっている。

 雷電の湯元から3里半、岩内につく。人家170軒、原住民(アイヌ)47人余、1里四方もの荒地が広がり少しばかりの畑もあって浜では鱈が名産。

 2月9日、晴れ。弁当持ちで五つ(8時)頃岩内本陣を発って余市街道を辿る。ショッコナイ(西前田)から曲師沢人2軒、中の小屋(中の川)原住民家3軒、シノナイ同1軒、御手作場(共和町役場付近)人家3,4軒ここ安政4年の開拓で畑余程あり役家1軒あり。

 この近くで堀株川上流を舟渡し、俗に岩内笹小屋という通行屋(国富付近)で昼餉岩内本陣より4里、この間平地続きで深林、通行屋前に梨桃[すもも]沢山植置きてあり、稲穂峠越えの渓流(シマツケナイ川)を登り、クルニエカ(地名)の濁川新茶屋で一休み、急坂を幾つとなく曲がって稲穂峠の絶頂、通行屋(国富)より2里、此辺30町1里(1里は36町)なり、此処に岩内余市の境柱が立ち、「是より北石狩持余市」とあり、他にお助け小屋が1軒あった。

 是より1里下り七ツ時(4時)余市笹小屋(ルベシベ)に着き通行屋に泊まる。余市領の山中(山道)は25町1里なりと、岩内領より道路が険しい故であろう。

 2月10日(明治3年)、雪。六ツ時(7時)ころ弁当持ちで余市に向かい出立。ルベシベ(大江3丁目)人家1軒、ヤス川(大江橋付近)より路は余市川沿いに下る。七曲[ななまが]り(スモモの沢)、ルルケヘツ、シカリベツ大橋あり通行屋2軒ありここで昼食、トマップに人家1軒(中沢藤八郎宅?)ワラビ生[おい](砥の川)からヌッチ越えの峠へ、此処通行のころから雪しきりに降り前後を弁ぜず、そこで作詩

 後者戴吾履 前者踏吾巾
 洞雲忽成雪 咫尺不看人

「後ろの者は吾が足跡を履み、前の者は吾が歩巾に注意しながら進んでいるうちに立ちこめていた暗雲はたちまち雪に変わって一寸先も見えなくなった」中をやっと桐谷峠を越えた。

 峠の下(豊丘)ヌウチ川に橋(小峠橋)あり、ところどころに人家20軒ばかりあり畑も余程あり、当時開墾が相当すすめられていた模様。

 この辺りより平地つづきで余市に到る。沢町という街あり1丁目より4丁目まであり絃[げん]歌の声など聞こえて繁華なり。ヌウチ川末流に橋(奴津知橋)あり、モイトマリ(茂入泊)という断崖の下をすぎると余市本陣(下ヨイチ運上屋)がありシカリベツから3里余り、此処に通行人や荷物などを次の宿場へ送り届ける人馬継立所がある。余市の人家200軒ばかり原住民(アイヌ)300人余りという。

 余市川巾30 - 40間(1間=1.8m)鮭が年々千石も揚がるという。此節は氷流これを渡って浜中(大浜中)砂浜が1里余りあり、此辺山際まで平坦の地(余市平野)1里ばかり荒蕪[こうぶ]のよし(この地明治4年には旧会津藩士が、同12年には徳島県人がそれぞれ団体入植して開墾の緒について)。

 フンコヘ(畚部[フゴッペ])人家5軒、坂あり坂の上に境柱建ち「従是[これより]石狩持ち余市領」とあり、下ればラウムシナイ(蘭島)人家20軒ばかり、又坂を越えればシャモトマリ(和人泊)という人家人家6,7軒、余市より2里是処に忍路の本陣(運上屋)あり、七ツ半時(5時半)すぎ到着して止宿す。忍路の人家都合200軒余り、原住民(アイヌ)100余人。

 2月21日、晴。五ッ時(8時)ころ出立。桃内、塩谷、高島、手宮を経て八ツ半時(3時)ころ小樽に着き大阪屋という旅店に止宿。人家400軒ばかり原住民27,8軒、酒楼妓楼沢山ありて西地第一の繁華の地という。会津戦争の降伏人400人ばかり当所に住居のよし。1日に米2升、青銅貨200文ずつ賜っているが暮らし方困苦し、雪舟(橇)を引き又は米搗きなどして今日を送る者多しという。一刀を横たえて雪舟[そり]を引いている者に出逢ったが定めし会津人であろう(後年余市へ入植した旧会津藩士)。

 さて、山田民弥一行は、小樽から海岸の険路伝いに銭函へ出、大砂浜沿いに石狩へ赴き、ついで2月10日札幌本府に至り、十文字大主典を尋ねてこの度の石狩までの巡見の趣きを申し述べ、併せて雷電峠など難路の切り開き、人馬継立人夫等の賃銭改善、二八税制の問題点など献策し、2月15日、札幌を出立して同月21日、無事イソヤに帰着した。

■島義勇

北海道開拓使判官であり、札幌本府建設の創始者である島義勇[しまよしたけ](団右衛門)は、余市越え山道を前後2度にわたって踏みこえた。

 安政3年、藩主鍋島直正の命を奉じて蝦夷地調査のため函館に渡り、翌安政4年、箱館奉行、掘織部正[ほりおりべしょう](利熙[としひろ])の近習[きんじゅう](側近)となって蝦夷地巡行に加わった。

 5月11日、堀織部正主従一行30余名の行列は箱館を発って蝦夷地に向かったが、この巡行目的は大体いって蝦夷地の道路開削・土地利用状態・民情視察の面が強く、従って舟を使わず徒歩の旅であった。ちなみに堀奉行の年齢40歳、島義勇は34,5歳ぐらい、奉行は馬か駕籠、島は馬か徒歩であったという。

 大野、山越内、長万部をへて新開間もない黒松内街道を寿都へこえる。当時この道路は東・西蝦夷地を結ぶ最短距離で通行人も多く、旅宿も板の間にゴザ敷きであったが、出稼ぎ人など100人以上も泊まれる大きな建物であった。

 その頃の寿都は、和人家137軒、煮売屋。小間物屋・古手屋・髪ゆい床屋など並び、あんまや三味線ひきなど、それにナナツラと呼ばれる売女達もいた。鰊は大漁、荒地の開墾も余程進んでいたが、去年中大流行した天然痘で大勢のアイヌ達が死んだと聞く。

 5月17日、寿都の宿所を出て歌棄で昼食、馬の背のような海岸沿いの石道を辿って礒谷、ついで西海岸の大難所雷電を越える。「はじめは平坂なれど中程に至り険、かつ岩石多く甚だ危険なり………鎮台(堀奉行)その他の面々満身汗、疲労をきわむ………」と。

 1里ばかりにしてユウナイ、ここで午飯、温泉(朝日温泉)あり湿毒(ひふ病)に妙という。

 それからまた険しい坂、危険は前に倍し「前路の人はわが脚下にあり、或は杖に、或はつたに寄りつき黙々として登り、実に恐るべき有様なり、この山頂のイナホ峠(岩内)、俗に鼻つき峠とも言う」と。

 岩内運上家で一夜を明かした一行は、道を余市越え山道にとる。お手作場(共和町役場付近)の開墾場、越後出身の百姓11人雇い荒地開墾、畑地2町歩、水田2,3畝、畑作も稲もよく育っているという。

 5月19日、稲穂峠を越える。「雷電山のことを思えば楽なもの」と、峠下の泊所ルベシベ(大江3丁目)の笹小屋で1泊。通称は笹小屋でも余市運上屋で新しく和風建築に建て替えられていた。しかし夜になって連れてきた馬が熊にねらわれている気配におちおち睡ることができず「鎮台より側近に申付け空砲12,3発放ってその夜は無事」だった。

 5月20日、余市川筋を下り馬行の困難な七曲りの坂道を登降して然別川口に辿りつき、ここで昼食。トマップ、キナチャウシ(西町)、ライクロハッタリ(北町12丁目)で休憩しながら平坦な路を急いだが、然別で弁当がすえていたらしく余市へ着くと全員腹痛。そのため1日休養して平癒[へいゆ]。

 5月22日、余市付近の開墾地を検分したがほとんど荒地で寿都や岩内の場合とは格段のちがいがあった。良い指導者に恵まれていなかったせいであろうか。

 かくて一行は、忍路、小樽、石狩へと赴き、ついで東・西蝦夷(北海道)から北蝦夷(樺太)を巡検して同年9月27日、無事箱館に帰着した。約4カ月の旅であった。

 島義勇はこの巡検旅行の報告書ともいうべき『入北記』全4巻を書き記して11月15日、洋式帆船箱館丸に乗って郷里佐賀に向かった。明治2年8月、開拓使判官に任じられた島義勇は同年10月、東久世開拓使長官らと共に英国船テールス号で函館に到着した。

 東久世長官及び同行の岩村判官らは函館に留まり、島義勇らサッポロ行き開拓使一行40人は荷車や荷駄などそろえて11月4日、開拓使仮役所のある五稜郭を後にした。

 大野村をすぎる頃から雪を交えた風も出はじめる。大沼の峠を越え駒ケ岳の山裾を廻って森に着く頃は雪は本降りとなり森の宿で1泊。

 森から海岸沿いの路を八雲、国縫、長万部をすぎる頃から天候急変し、行手の黒松内あたり鉛色の雲が張り出して大吹雪の前兆という。引き返して長万部泊まり。宿は漁師の納屋。食事は雑炊と大根葉の浮いた干スケソの三平汁
イナキビでつくったドブロクが僅かに身体を温める。

 黒松内越えの新道も荷車がやっと通れるくらいで10年前と殆ど変わっていない。二股を過ぎ山峡にさしかかると吹溜りに道を失い、泥田道に人も馬も足をとられ、荷車は危なく横だおし。ワラジばきの足は冷たさに感覚を失い、冷え切った飯は喉を通らぬ。

 義勇はその時の模様を『北海道紀行草稿』に、「径ハ水田ノ如ク転覆シ易シ、於泥凸凹[おでいとつおつ]シテ馬腹ニ及ブ、風雪禁ジ難ク憩ウニ家ナシ、壮士[そうし]ハ叫ビ女子ハ哭ク」と。
島義勇の北海道紀行草稿

 その夜は歌棄で1泊。ついで礒谷から雷電越えする岩内への道はかつて掘奉行から一行の巡検使で苦労が骨身に徹している義勇は、礒谷の浜に酒を供え海神に祈り、2隻の船で無事岩内へ渡る。

 岩内から余市へ向かう。一行は笹小屋(国富)で焚火を囲んで昼食をとり、余市山道越えにかかる。稲穂峠にさしかかる頃から早くもあたりはとっぷりと暮れていた。「一山また一山、暗さは暗く風も一きわ寒さを増す。しばらくして突然谷間越しに狼のほえる声………」一行が困り果てていた矢先、麓の人々が樺皮[かんばかわ]に火を点じた松明をかざして出迎えにきたので、事なくその夜は通行屋に泊まる。

 11月10日、余市川に沿う山道を七曲り、然別、トマップへと辿り、砥の川口から一気に急坂を登って桐谷峠の頂きに立った。

 眼下の余市川の原野が広がり、その東方には忍路岬、高島の赤岩山が眺まれ、はるか水平線上に雄冬の連山が雲のごとくたなびく。

 明日は高島(小樽)、明後日はサッポロの地が踏めるやも、神祇官から受けた「開拓三神」をしっかりと背負った島義勇はサッポロの空を睨んだ。「蝦夷開拓は皇威隆替の関するところ心して励みその実をあげるよう」明治天皇の御言葉と盃を受けた東京出発に際しての感動を今新たにしたもののごとく、島の姿はその責務を果たしたいという気概が身体いっぱいにみなぎっているように見えた。

 余市の部落は函館を出てからはじめて町らしい様相をしていた。10年前(安政4年)の余市よりも一まわり大きくなっていた。余市川に近い宿につく。以前の運上家は兵部省の出先役所になっていて島達一行が到着しても何の反応も示さなかった。

 12月12日、小樽郡銭函の駅逓所に到着した。

 島義勇はここに開拓使仮役所を置き、ついで円山コタンベツの丘からサッポロの地を相して、「河水遠く流れて山隅にそばだつ、平原千里地は膏腴[こうゆ](肥沃)、四通八達宜しく府を開くべし、他日五州第一の都」と、ただちに本府建設に着手した。

島義勇の墓(佐賀市郊外)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p150-161: 64余市山道を越えた人々 --- 初出: 仁木町広報1987(S62).5,6,7,8,9

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