仁木町とドサンコ

 ドサンコとは北海道で古くから野生化していた馬のことで、正式には北海道和種馬と呼ばれている。

 本道の開拓以前までは馬と言えば大概ドサンコのことであり、明治以降は洋種馬との交雑がすすんだが主流はやはりドサンコであり、大正時代に入っても仁木町などでは農耕や運搬に、この種の馬が相当残っていた。柄は小さいが粗食に耐え、体力もまた強健であった。

 天明8年(1787)、幕府の巡検使三枝十兵衛らに従い、奥羽及び松前を巡り『東遊雑記』を著した古河古松軒は「松前は馬が多い所で少しの荷物でも馬で運んでいる。その馬を見ると本州の馬よりずっと小さいが力は至って強く、本州の馬の2頭分くらいの荷物を背に、険しい山坂を越えても平気で汗もかかない。そればかりかくつ(蹄鉄)をつけていないのに石原を通っても爪を損なうこともない………(意訳)」と、ドサンコの特徴に触れている。

 仁木町へ馬が現れたのはずっと後のことである。

 安政3年の秋、余市ー岩内間に新道が開通し、同4年の初夏には松浦武四郎が、イナホ峠を越えて新道を検分したが、相前後して時の箱館奉行村垣範正[のりまさ](淡路守)や掘利煕[としひろ](織部正[おりべのしょう])主従一行らもやってきた。

掘利熙[としひろ]一行の蝦夷地調査(函館図書館蔵)

 中でも堀奉行の近習として同行した玉虫義[たまむしぎ]の『入北記』によると、「イナホ峠を越えてルベシベの通行家へ泊る。ヨイチ運上家が建てた新築間もない至極美しい宿であるが、夜になって連れてきた馬が熊にねらわれている気配におちおち眠ることができず、鉄砲を12,3発砲してその夜は無事であった」と。

 明くる日は余市へ向かった。余市川の左岸の山道を上り下りして七曲りを過ごし、然別の丸山あたりにさしかかるとゴロッタ混りの石坂が続き、ついに「馬行叶わず………」と嘆いて馬から下りた。よほど足もとが危なかったのであろう。

 文久3年(1863)、ヨイチ運上家(林家)に伝わる古文書『ヨイチ越山道継立仕法』によると、ヨイチ山道筋の要所には旅人の利便を図って人馬の継立所がいくつか設けられていた。岩内と余市で用意した立馬50疋、立人足(人夫)55人のうち馬16疋、人足17人は然別で扱った。馬と人足は然別の御休所(丸山の麓)を詰所にして旅人の求めに応じ、ルベシベの通行家(御泊所)へ人や荷物を運搬した。

 ルベシベの通行家にも馬18疋、人足21人が詰めていて、引継いだ人や荷を峠を越えて岩内領のシマツケナイ(国富鉱山付近)御泊所へ届けた。

 まだ原野に近かった仁木の広野に、ヨイチ越え山道を行き交う馬の嘶[いなな]きが流れはじめたのは、江戸幕府も終りに近い安政時代のころからである。

 仁木町の開拓は明治12年の晩秋徳島県人の入植にはじまるが、掘っ立てのササ小屋の中で明治13年の正月を迎え、各自割り当てられた土地の伐木作業に努め、開墾準備に追われながら春を待った。

 雪がとけると開墾がはじめられた。冬期間に伐り倒した雑木はササ原とともに焼き払われ、開拓使庁が差し廻した技師・技手・人夫なあど130余名は、洋牛60頭、プラオ・ハロー・抜根機械などを携えて来村し、移住民らの開墾を援助した。

 移住者各自は、配給された唐鍬・刃狭[はせば]鍬・ツルハシ、それに鋸・鉈・鎌などを手に開墾に整地に、播種にと老幼男女一家をあげて命がけで働いた。

 一方、切り倒した木は薪や木炭にして余市方面の鰊場・その他へ売れた。しかし冬季は雪上を手橇[てぞり]などで運んだが、雪が消えるころから秋にかけては馬に頼るしかない。馬は運搬用ばかりでなく乗用としても開墾や農耕用としても欠かせないものになり、その偉力を発揮する馬を求めることが入植者にとって切なる願いであった。

 明治19年に移住した吉田幾太郎氏の話によると、彼が来村したころの仁木村の農家では大抵馬を飼育しており、当時「馬追い」と呼ばれていた運搬業社などは、3,4頭の馬を扱っていた。また「バクロウ」などと一般に呼ばれていた牛馬商人も何人かいて、農家を回って馬の売買の仲介をしていたという。

 明治19年、ポン然別川上流に発見された然別鉱山は有望な金・銀・銅・亜鉛・鉛などが産出するため、明治28年地元に精錬所が建設された。その最盛期には鉱山社宅300戸、それに多くの商店が軒を並べ、私立の尋常高等小学校が設けられた。

 かねてから然別鉱山の精錬用の木炭製造に着目していた槇垰[まきたお]幾太郎氏は、馬群別(銀山)の払い下げ地へ人夫50余名を入れ炭焼き小屋を設け、立木を伐採して製炭事業に従事し、ついに月産2万貫(1貫は3.75kg)に及んだが、銀山から然別鉱山間の片道16kmに及ぶ木炭の運搬は、主としてドサンコの強じんな脚力とその背に頼らねばならなかった。

 農耕に、物資の運搬に、また唯一の交通機関として、その役目を忠実に果たしたドサンコは、時代の需要により南部馬や輸入洋種馬の交配がすすみ、明治の終わりから大正時代にかけて次第にその影をひそめていった。

 とは言え、仁木町の開拓はドサンコと共にというより、ドサンコによって成し遂げられた。ドサンコは開拓の先兵とも言えよう。

馬の売渡証書(安崎京一氏蔵)

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p44-47: 11仁木町とドサンコ --- 初出: 仁木町広報1992(H4).8,9

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