旭台の地相

 仁木町役場わきの通り(6番線)を余市川に向かい、仁木大橋を渡ると旭台地区である。ここはその名も旭台と呼ばれるように、日当りのよい高燥な丘陵性の高台でその上にはりんごやぶどう畑が広がる中に、農家が点々と見えがくれしている。

 旭台の背後の山地は、然別山の山脚が砥の川から鮎見橋裏山付近までその尾根をのばし可成り急な崖が東に向って屛風を立てたように連なっている。

 「20万分の1地勢図」や「地質図」などをひろげて見ると、この地形は断層の崖らしい。

 それはかつて赤井川火山が活動した際に伴って起った断層運動で、東側が落ちて仁木平野をつくり、西側がとり残されて旭台に断層の崖が形成された。その崖下に丘陵性の高台が生成されたもののようである。

 この断層崖は、地質学上では「尾猿内層」と呼ばれていて、砂質の海成層からなり、その岩質はもろくて風化しやすい。従って旭台の断層崖は崩れやすくて地すべりなど起し易い。旭台の地表はたび重なる地すべりにより、その崩土がつもり積って形成されたものと言えよう。

 現在この崖下の耕地の中には、ところどころに小山のような岩塊がナマコ状に横たわっていたり、段差が1m前後もある帯状の起伏が幾すじも走っているのが見受けられるが、それはかつての地すべりが残した跡かたであると推察できる。

 大正時代のはじめ頃と聞く、当時尾猿内(旭台)の山すそに住んでいた関川某一家が、土砂混りの雪崩に襲われ、家屋は全壊し人も馬も一瞬の間に遭難した。その地すべりの跡は今も生々しく、赤ちゃけた岩肌をのぞかせ、草も木もよせつけそうにもない。

 旭台地区の地すべりは、その後は安定しているかに見えるが、その筋の調査した「北海道地すべり地域分布図」などには、その危険地帯として、旭台地区も明記されている。

 旭台地区は明治30年代に入ってから開墾がはじめられた。台地上にはオサルナイ沢やキストラナイ沢など2,3の渓谷はあるが、一般的に地下水位が低く飲み水を得るにさえ不便であった。農家は渓流の水を求めて住居を構え、はじめはいもや麦などの食糧作物を、第一次世界大戦中には主として大福豆や中福豆、大豆、小豆などの豆類を耕作して一時好景気の波に乗ったがそれもつかの間、世界的大不況にもまれながら、地力の衰えかけた土地にエンバクや除虫菊、それにぶどうやりんごを加えて、これに耐えた。

 今、畑地かんがいの設備が整い、果樹園内を舗装道路が縦横に走って、今昔の感一入である。

傾いたり、ちぎれたり、堆積したりした複雑な地層
(旭台 藤木氏宅付近の道路開削現場で)

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p48-49: 12旭台の地相 --- 初出: 仁木町広報1992(H4).10

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