余市山中に宿る

 北海道開拓使主席判官であり、札幌本府建設の創始者で知られている島義勇は、明治2年開拓使長官鍋島直正のもとで判官となった。

 しかし、間もなく東久世長官に替ったが、島は札幌本府建設の大任を受け、同年の11月、部下40余名を率いて函館から陸路を踏破して札幌に入り、直ちに地割を行い、役所を建て、また人を派遣して農民や商人たちを募った。

 しかし、折からの石狩の経営に当っていた兵部省(井上弥吉)と競合したので、資材や食料・人夫賃はいやが上にも高騰し、開拓使の資金はみるみる減っていった。

 島義勇のやり方に「財を浪費し、人夫を酷使している」という批判や流言が飛び交う中、東久世長官はいきり立ったが、義勇は揺るぐことなく人夫に対しては、1日米1升、金1分を与えて厚く遇し、どんな曇の日でも休まず工事を続行した。

 しかし、追加予算をめぐって東久世長官の反対にあい、事業半ばにして解任され、島義勇に突然帰京の命令が出た。

 中傷や誹謗に対し毅然たる態度を貫いてきた義勇も、この時ばかりは天を仰ぎ「かつ喜び、かつわ嘆く、その嘆きは開拓の業終えざるを怒るなり」と詠んで(『北海道紀行』)帰京の途についたが、再び陸路を選んで箱館の港に向かう。

 途中、小樽から余市を経て稲穂峠のルベシベ通行家で泊る。「旅館は深く積雪の中に埋もれ、さながら仙洞の如く一途を通す。数声驚破す行人の夢、犬は屋頭を走って暁風に吠ゆ」と。旅館(通行家)は丈余の積雪の中に深く埋もれ、あたかも仙人の住む洞穴のような道が一筋通じている。ここに泊って眠り難い旅路の夢を結んでいると、数声のけたたましい獣のなき声に驚き目を覚ました。犬が旅館のほとりを走りまわって、夜明けの風の中に吠えているのである。と詠まれているが、同じく即事に「到る処の吏人送迎に方[あた]り、皆言う君去らば事成り難しと。かつて司馬迂叟の徳無く、密かに恥ず馬前頻に行を駐[とと]むるを」と。

 帰京の途につくや、札幌を発って以来いたる処で役人や住民が温かく迎え、別れを惜しんで見送りにあたってくれ異口同音に「あなたが去られたら北海道の開拓、石狩(札幌)本府建設の事業は成就し難い」と言う。

 私はつまらぬ人間で司馬温公のような徳もない身であるゆえ、別れを惜しむ人々が馬前につぎつぎに現われ、たびたび行を駐[とど]めざるを得ないのを内心はじ入り深く恐縮している次第である。と詠んで、別れをおしみながらルベシベの宿を出、稲穂峠を越えて去った。明治3年2月中旬のことであった。

稲穂峠の古い道筋に並んで建っている島義勇(右上)と
松浦武四郎(左下)の詩碑と歌碑

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p72-73: 25余市山中に宿る --- 初出: 仁木町広報1993(H5).12

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