仁木高校の界わい

 仁木町東町5丁目、四番線道路ぞいの果樹園の中に仁木商業高等学校が「白亜の殿堂」そのものの如くどっしりと坐っている。

 春はりんごやナシの花に囲まれ、秋空にはりんごの紅が映え、ぶどうの香りがほのかに漂う。南に頂白山を仰ぎ、東に余市岳、西は積丹の山なみが続き、余市湾の波路はるかに雄冬や増毛の連山が展けている。実にたぐい稀な環境といえるであろう。

 この付近は、開拓時代の『後志国余市郡仁木村開墾地割全図』によると、「89号・横田政吉」とあり、当初は彼が墾成したものの如く、ついで新開某氏の手に移った。新開氏は、更に隣接する87号の地所の一部をも併せたが、この付近は開拓当初種川の分流した古川の跡であり、低湿だったので養鯉池に利用した。幅20m余り、長さ100mをこえる程の細長い池で、その水面にはオンコやナシの木などをのせた小島が5つ、6つ浮かんでいた。

 現在は、横関果樹園のナシやぶどう畑に覆われているが、気をつけて見ると昔の池跡がわずかに窪んでいてそれと察知できるし、仁木高校の格技場裏あたりにその放水溝跡が近頃まで残っていた。

 仁木高校の敷地はもとの金光祠[きんこうし]の境内に当たり、昭和の始め頃は仁木尋常高等小学校の農業実習地でもあり、当時高等科1,2年生男子が鍬や肥桶[こえおけ]を肩に、週に2回ほど通って唐きびや南瓜、それにジャガイモやトマト作りをした。

 金光祠が建立されたのは、100年余りも昔であった。『金毘羅宮造営人馬寄附帳』の表書きに「金光祠事務所 明治21年1月 村中御中」などの記録があるが、仁木村の人達がこぞって浄財を捧げ、且つ、労力奉仕などによって完成されたようである。

 社殿は大きいとは言えなかったが、宮大工の手による本格的な「流れ造り」で切り妻・平入り・組高欄が廻わされ、破風のうえに縣魚が飾られていて見るからに気高く、威厳のこもった立派な社であった。

 毎年10月10日の祭日には、世話人をはじめ部落内外からの参詣人もつめかけ、余興の子供相撲も好評であった。その行事役は大抵相撲ずきの年寄連中で時どき差し違えなどでお愛きょうもあったが、3人抜き5人抜きの豆力士がでるとどっと歓声があがった。子供らは何度でも取り組んだ。勝てば鉛筆2本、負けても1本当たる。

 ふだんでも金毘羅宮前では立ち止まって手を合わせるか、頭を下げて通りすぎる者が多かった。子供の頃から大抵そう躾[しつけ]られてきたのであった。

 長い間、村人の信仰を集めていた金光祠金毘羅宮は、先年仁木高校へその跡地をゆずって、今は仁木神社の境内へ遷座されている。

 当時、地元の古老の中には落胆した者も少なくなかったと聞くが、近くを流れる種川には、真っ赤な欄干のある「金比羅橋」が架かり部落の名も「金光」と呼ばれ、御神体は移られても「金光祠金毘羅宮」の聖域であったことは何時までも消えないのであろう。

 仁木商業高等学校の前通りをすぎ種川に架かった金比羅橋を渡るとすぐ左は同校のグランドの緑が広がり、それをめぐる銀色のフェンスが目を引く。その向いは、坂東俊男氏のりんご畑が開けそれに水田が続くあたり、裏線の道路(裏道路)がほぼ南北に走っていて、今きた四号線道路と交叉する。この十字路は昔から「二本木の四辻」と呼ばれ親しまれてきたが、二本木は今ない。

 仁木商業高等学校ができてから40年余、誰言うとなくこの四番線通りを「高校通り」と呼ぶようになり、国道筋のバス停や踏切りにまでその名が通るようになった。

 昔は橋も道路も貧弱であった。金毘羅橋も名の無い木橋で、電柱のように太い丸太を渡して橋げたにし、その上に厚い板を敷き並べただけで手すりもない粗末なもので大水が出ると痛んだり流されたりした。それでなくても耐用年数5,6年、度々架け替えなければならなかった。村から資材の提供はあったが架橋などの経費は、いうなれば受益者負担で部落民が手弁当で出役に当たった。

 道路の修復などもほぼ同様で部落の人々の手にかかることが多かった。砂利敷きの道路であったから一夏で路面は穴だらけ、雨後などそれが水溜りになり、当時、大車と呼ばれた荷馬車などが通ると泥水をまきちらかすばかりか轍[わだち]のあとが深まって路面はますます荒れる。ころ合いを見て余市川から砂と小石混りの切りごみ砂利を運んで敷き均した。

 十字路のかたわらにヤチダモの木が二本並んで茂り、そばにはしご形の半鐘塔があった。何しろ此処は余市海岸近くまで続く水田地帯、その中に背を伸ばしていた二本の大樹、何かにと目標にされて村内外の人々に「二本木」と呼ばれ親しまれた。

 当時、軍用の地図にものったことがあったが、去る年、道路拡張工事に支障があるとして伐り倒された。惜しいことに樹齢100年にも及んでいた。

 半鐘塔も部落民が集まって建てた。火事や洪水は勿論、降霜など非常緊急に備えた。この鐘が最も多く打ち鳴らされたのは確か昭和6年、この年は天候不順で稀有の大凶作、冬の寒気がきびしくそして多雪、春は融雪災害、6月から7月にかけて異常低温、しかも大雨や日照不足で大冷害となった。

 殊に水稲は出穂が遅れた。9月の中頃から「降霜注意」を知らせる半鐘が毎日のように鳴った。ワラや枯草などを燃やして燻煙[くんえん]をあげて霜害防除に努めたが、稲刈りも遅れて10月下旬から11月上旬に及んで雪を払いながら作業した。

 今、仁木高校の界わいは水田地やぶどうやりんご畑に変わり、道路も見事に舗装された樹園地農道が縦横に走って昔日の面影は一片もない。旧家坂東俊男氏宅の赤松の老樹、氏の祖父友蔵氏の植えられたものと聞く。逞しく枝葉を広げたその葉影から赤い木肌をのぞかせながら、どっしりと腰をおろしていて、いまにも開拓時代の苦労を語りかけてくれそうである。

ー 道標『二本木』消える ー
 皆さんに親しまれていた通称『二本木』が昭和52年7月1日切り倒されました。
 東町5丁目の町道わきにあった二本木は、樹齢100年とも言われ、地域の人たちはもとより町民皆さんから道標として親しまれてきましたが同地区樹園地農道整備事業のため、伐採されたものです。
 この日、根元に祭壇を作り、町長はじめ関係者多数が玉ぐしをささげて、樹霊を慰めたのち、業者の手によって切り倒されました。 (町広報より)
ありし日の「二本木」の有志

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p26-29: 7仁木高校の界わい --- 初出: 仁木町広報1991(H3).9,10

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