吉野川の岸辺

 吉野川は昔から”四国三郎”とも呼ばれ、”坂東太郎”(利根川)や”筑紫次郎”(筑後川)と共に、日本の三大河といわれていた。

 その長さ約200km、四国四県の水を集めて阿波一国を貫流し紀伊水道に注いでいるが、一度台風雨などが来襲すると「暴れ水」とか「阿呆水」の異名をもつこの吉野川は、暴れ川に本領を発揮して大氾らんをおこし、そのつど河道を変えたり沼や湿地を残したりして流域の人々を悩ました。

 しかし、一方では洪水による肥えた土砂の堆積がすすみ農耕に適した土壌が広がった。特に池田町から徳島市への東西80kmにわたるクサビ状にのびた徳島平野は「阿波の北方[きたがた]」とも呼ばれ、昔から藍作の宝庫であった。

 幕末から明治維新にかけての内戦や政変で民心が動揺している矢先き、吉野川流域は相次ぐ風水害に見舞われ家屋や耕地に大被害をうけ、生活の困窮者が続出した。

 仁木竹吉氏は、この惨状を救うべく北海道移民策を企て、その入植を仁木村の地に選んだ。したがって移住者は吉野川の流域、すなわち阿波北方[あわきたがた]の出身が多かった。

 あれから100年余の歳月が流れ去った今、われわれの父祖たちが夢にまでえがいたふる郷の情景。その残像を探し求めながら吉野川の岸辺を歩く。池田から脇町、市場、川島、鴨島などを経て徳島市へと。

 池田の町は徳島平野の西端にあり、もと「大西」と呼ばれていたが、平安時代につくられたという古池があり、ここから池田の地名が生まれた。東に徳島、北に香川、西に愛媛、南に高知に通ずる交通の十字路に当たり、三方はけわしい山をめぐらした要害の地でもあった。室町時代から「大西城」があり、「白地城」も築かれたがのち長曽我部氏が四国支配の拠点にしたところである。今、その本丸跡に大西神社が建ち、近くには、硫化カルシウムを含む白地温泉がある。

 池田町の近郊では古くから葉たばこが栽培されてきた。これから作るあやめとかはぎなどのなで呼ばれた刻み煙草は全国的に名声を博していたが、現在は紙巻き煙草の製造が行われていて専売公社の工場が町の中心部を占め、池田町の経済に大きな比重をもっている。

 町の北部山中に平安時代に創建された箸蔵寺[はしくらじ]がある。それは、金毘羅宮の奥の院に当たるという。金比羅はインドガンジス川に棲むワニを神格化した水神であるため農業や航海の守護神として信仰され「箸蔵詣り」として昔も今も参詣人が多い。

 早くから仁木へ移住した人達も、いち早く金毘羅宮を勧請[かんじょう]し、また箸蔵講を組んで郷里を偲ぶとともに家内安全や豊作を祈念し、心のよりどころとした。

 高校野球で名をあげた阿波池田の町を後に、吉野川左岸に沿う撫養[むや]街道(池田ー鳴門線)を三好や美馬を経て脇町方面へ向けて車ではしる。

 上代からあったというこの道路は当時、都と結ぶ官道で、公用の使者らが馬に乗って駅々を駆けぬけ、一般庶民らは現物納の租税であった米や布などを自ら歩いて運搬した。その長い往復の旅は飢えや病気に苦しむことも多く猛獣や野盗におびえ、時には樹の根を枕に野宿することもあったという。

 車が進むにつれ、徳島平野は西から東へ向って次第に広がってきた。

 車窓から見えかくれする吉野川の岸辺や中州のあちこちに竹林が川風にそよいでいてすがすがしい。聞くところによると、昔から吉野川の治水策としてその下流を堤防で守り、上流は堤防をつくらず川水を周辺一帯に分水させる遊水策をとってきた。この遊水地帯は池田町から川島町まで約60kmに亘って竹林で守られていた。

 この竹林は、洪水の防止として役立つばかりでなく、竹は団扇や篭、傘などの加工業を促したという。中でも農具として欠かせなかった唐竿[からさお]・箕[み]・竹箒[ほうき]などは、その丈夫さや使いやすさで全国的にその名をあげた。

 仁木町でも入植以来、それら竹製の農具類はほとんど徳島県産の製品を使用してきたのであった。

 三好や三野町をすぎていつの間にやら美馬町に入った。ここは古くから、名馬の産地といわれ、美馬の地名もそこから生まれたようである。

 源平時代「宇治川の先陣争い」に参加した名馬の池月もこの地の産とか。

 この付近一帯は、砂礫の多い扇状地が多く田や畑よりも桑園が目につき、繭の生産が多いという。昔から牛や馬を飼うことが普及していたが耕地が狭いので、米が乏しく桑や楮[こうぞ]や葉煙草などをつくりながら農繁期には隣の讃岐(香川県)へ牛だけを出稼ぎに出した。「借耕牛[かりこうし]」といって毎年、夏と秋の2回、数百頭の牛の群れが鈴をひびかせながら国さかいの峠を越えていった。

 これらの牛は讃岐で水田耕作やサトウキビしぼりに使役され、仕事がすむとその賃米やみやげ物などを背にのせて帰ってきたので、阿波(徳島県)では「米牛」とか「米とり牛」と呼んだ。

 因みにこんな俗謡がある。

 「一合雑炊 二合粥 三合めし に 粉五合」。

同じ満腹感を与えるのに米飯だけ食べれば三合のところを雑炊なら一合、粥なら二合でこと足りる。粉は五合いるからぜいたくだという意味がある。

 「阿波の北方起きあがり小法師寝たと思たらはや起きた」。

「お前どこ行きや、わしゃ北方へ、藍をこなしに身を責めに」
と。

 吉野川沿いの村々で歌いつがれた農作業歌であるが、阿波の藍をその底辺で支えていたのは、こうした吉野川流域で黙々と鍬をふるう働き者ぞろいの農民達であったと言えよう。

 脇町へきた。北の讃岐山地から流れ下る大谷川の扇状地上に立地した商業の町で市街の中程を撫養[むや]街道が横ぎり、町の南端を吉野川がゆったりと洗っていて昔から水陸交通の要衝であった。

 豊臣時代のことである。徳島藩主蜂須賀家政が筆頭家老の稲田稙元[たねもと]に1万石(後に1万4千石)を与え脇城の城代にした。

 稙元は先ず戦乱で荒廃していた城と居館を修築し、ついで地の利に着目して商業の奨励に当たった。脇町にきて商業を営む者については、その生国を問わず地代金も諸役をも免除した。

 そのため隣りの讃岐や伊予、土佐ばかりでなく海をこえて備前(岡山)からも商人がやってきた。呉服商をはじめいろいろな他の商人がやってきた。その中でも豪商として成長していったのは藍商人であった。彼らは農村から葉藍を集め、ねとこ(藍蔵)といった大きな建造物をつらね、大勢の使用人をもち、町の賑いの中心になった。脇町の繁昌は稲田稙元の城下町づくりにはじまったことは言うまでもない。

 そののち幕府は、全国に「一国一城」たるべきことを布告し、脇城も破却され、稲田氏もまた淡路本城の城代に移された。その上、脇町の商業地は、徳島本藩にとりあげられた。

 時代はずっと下って、明治維新早々「稲田騒動」といわれる大騒ぎが起った。淡路本城の城代稲田家の家臣が企てた独立運動に対して、徳島本藩の藩士らが憤激して稲田邸など襲撃して流血の惨事を招いた。

 明治維新政府はその裁きとして首魁らを斬首や流刑などにして徳島藩を処分し、被害者側の稲田家には北海道への移住を命じた。明治4年、稲田邦稙は家臣団700数十名を引きつれて、日高の静内郡へ入植して開拓に当たった。現在の静内町である。

 明治8年、黒田開拓使長官の配慮で、はじめて北海道へ渡った仁木竹吉は、「開拓使殖産係」を仰せ付けられ直ちに全道各地の巡検に出たが、先ず静内郡に赴き稲田邦稙を表敬訪問し、20日間も滞在して種々の助言や指導をうけた。竹吉はまた同郷の友人岡本監輔の意見なども大いに容れて、全道各地を踏査すること実に4年、ついに地理的位置に恵まれた仁木村の地を発見したのであった。けだし同郷の友人や知人の彼によせた力も大きかったといえよう。

 車からおりて町内を歩く。脇町は江戸時代から明治にかけて繁栄した藍商人の屋敷が今も静かなたたずまいを見せている。本瓦葺き、塗り込め壁の重厚な構えに防火壁の袖壁、それに梲[うだつ]があがっていてかつてはこのような土蔵造りの家並が100軒をこえていたという。裏には吉野川に面し昔の船着場の石垣も残っている。

 古い家を改修したふれあい館、新しく建てられた図書館や中学校・スーパーストアなどmみな町の警官に沿って瓦葺き、白壁、虫籠窓[むしこまど]や梲があがっている。脇町の良さは土蔵造りの家並だからそれを新しい町づくりの基調にしているようで町並の美しさばかりでなく往来する人々まで他と違った風情がある。

 脇町の東隣り市場へきた。吉野川(大川)をへだてた南には川島町や鴨島長の家並みが目前に迫っている。

 阿讃山脈を深く削った日開谷[ひがいだに]川が吉野川に向けて扇状地を広げているが、その中程に市場町の中心街がのっていてあたりの水利に恵まれたところは水田が開け、山麓はぶどうやみかんなどの果樹園、それに牛や豚などの養畜家が点在した農村が広げられている。

 この付近一帯は、その昔、香美原[かがみはら]と呼ばれ藩政時代の初期まではほとんど人が住んでいなかった。二代藩主蜂須賀忠英[ただてる]はたまたま藩内巡視中(1650年)阿波郡一帯の土地を見るに及んで余りにも荒廃した原野が多いのに驚き且つその対策を考えた。

 藩内の農業生産を高め年貢を増加するためには、原野を開拓しなくてはならない。

 先ずは失業武士や百姓などに武士の待遇を与えて入植させ、耕地を開墾させると共に非常の時の兵士となるような制度を設けた。はじめは税を免除し、月に3回、市場を開き誰でも自由に移住してくることを許し、開墾した土地は各自へそっくり与えた。

 こうしてできた在村の武士団、すなわち兵農を兼備した屯田兵的武士を「原士」と呼んだが、これは蜂須賀藩特有の制度であった。市場町はこうして開発され、幕末までそれが続いた。

 今、町内の興崎[こうざき]にみられる東西に延びる900mほどの直線道路は原士の馬場跡であると言われており、天満神社には原士の子孫が「原士の里」などの石碑を建てている。

 かつて仁木村開拓時代以来の入植者には市場町出身者が多い。筆者の知る限りでも20戸は下らない。その祖先の方々の中にはその昔、一国の城主や城代をはじめ瀬戸内水軍の将士や原士などの血をひく由緒ある家柄の人も多いようである。

 原士によって開発された市場町一帯は、近世以来麦類などの他にさとうきび栽培が盛んであった。また県下有数の養蚕地帯でもあり、藍や煙草や綿の栽培も大正初期まで続いたという。

 藍の収穫や養蚕の多忙時期には、隣の香川県から日開谷の峠を越えて市場町方面へ讃岐の婦人達が大ぜい出稼ぎにきた。

 「朝は大根めし 昼、菜めし 夜は、おねばのおろうすい(お雑炊)」。米の少ないこの地方の食事は貧しく、その上、労働も激しいものがあったとみえる。

 「讃岐せこい(苦しい)とて阿波へは越すな、阿波の北方[きたがた]なおせこい」と。讃岐女たちからでたであろう作業歌が残っている。

 しかし一方、「讃岐男に阿波女」という諺がある。養子をもらうなら讃岐からもらえの意であり、阿波女は嫁のことである。

 現に香川県では阿波の婦人が多く嫁がれており、徳島側の三好郡や美馬郡などでは香川県からの養子が多いという。

 特に阿波女は気だてがやさしく働き者で心棒強く、そのうえ、世帯持ちがよいので好まれたのである。と地元の古老がたの語るところである。

 市場町から土成長を経、吉野川に架けられた阿波中央橋(821m)を渡ると麻植[おえ]郡鴨島町、そして川島町・山川町へと低平な田園がつづく。

 くすんだ瓦葺きの農家が点在し、中には古い大きな藍倉などの白壁が午後の日ざしに映え、それに植込みの松や広葉樹の影を落としている。かつて父祖たちの語り草だったそのふる郷の情景の片鱗に接した思いである。

 この付近一帯は、もともと南の四国山脈と北側の阿讃山脈にはさまれた谷あいで、そのへ波が打ち寄せる入江であった。そこへ吉野川が上流から営々とたゆみなく土砂を運び流し続け、この入江を埋めつくし現在の平野をつくりあげた。その後も度々洪水によって肥えた泥土をまき散らし、農耕にふさわしい肥沃な土を堆積していった。

 阿波の名がそもそも粟国[あわのくに]で、粟の良くみのる国という意味からも考えられるように、応神天皇時代にはすでに粟が代表的産物として全国に知れわたっていたがその後、朝廷の祭祀などを司っていたという忌部[いんべ]族が沃野を求めてここに落ちつき麻を植えた。その祖は隣の山川町に忌部神社として祀られており、今も忌部氏の直系といわれる三木某氏が美馬郡木屋村におられるというし、鴨島・川島・山川・美郷の各町村からなる「麻植[おえ]」郡の地名もその由緒を語っている。

 吉野川がつくった平地や自然堤防や河岸段丘などすべてが田畑を実らす好条件を備えていたので、藩政時代には藍や煙草やさとうきび、それに桑などが作られた。特に藍を藩の最も有力な財源としたのは蜂須賀家政だったというが、家政は播磨から藍苗をとり寄せて呉[くれ]島(鴨島一帯)に試植したのが始まりだという。

 藍の衰退後は養蚕や製糸が盛んになり、鴨島は糸の町として知られた。近年は米作中心の他に野菜やみかん類などの栽培が増えているという。

 畑の中に報恩寺がある。境内に銀杏の大木がそびえているのでイチョウ寺とも呼ばれているがその樹下に飯尾[いのお]常房の墓がある。

 常房は室町幕府の評定奉行となったが、書にも和歌にも秀でていた。応仁の乱で焼け野が原になった京都の惨状を嘆いて「汝[なれ]や知る都は野辺の夕雲雀[ひばり] あがるを見ても落つる涙は」と詠んだ。戦前小学校の教科書にも載っていて特に有名であったことはいうまでもない。

 報恩寺に程近い壇[だん]と呼ばれる河岸段丘の端に、幹の周りが10m余りもある大クスがある。平康頼[たいらのやすより]が植えたとの伝えがあり、徳島県指定の天然記念物として保護されている。段丘の下に康頼神社と三輪塔が3基ある。康頼は平氏政権を滅ぼそうとした鹿ケ谷[ししがたに]での謀議事件により、僧俊寛らと共に鹿児島の鬼界ヶ島[きかいがしま]へ流刑されたが後にゆるされ、源氏政権となるや阿波国麻植の保司としてこの周辺に入国した。

 近くの玉林寺は鹿ケ谷事件の犠牲者を霊を弔うため康頼が建立したと伝えられている。大クスの樹の下に佇んで昔を忍んでいる間に秋の日は西の空に傾いていった。

 鴨島から国道192号線を西にむけて車で走ると、沿道はのどかな田園が広がり古い構えの農家や白壁の藍倉などが点在し、ほどなく低い台地の上に川島城の天守閣が見えかくれする。

 川島町の中心地は高さ50m前後の河岸段丘からなる台地の上にのっている。吉野川の本流がこの河岸段丘を側方から侵食しているが、基礎が硬い結晶片岩なので川島台地だけ北に向けて半島状に残った。その北端は「岩の鼻」と呼ばれる断崖絶壁であるが、青石(緑色片岩)のなめらかな岩肌が美しい。

 川島の町は古くから城下町として発展してきた。

 天正時代(1573)のはじめ、三好氏の一族であった川島兵衛進[ひょうえのしん]が台地の一角を占める城山に川島城を築いたが岩倉合戦で戦死した。

 天正15年(1587)蜂須賀家政が阿波(徳島)に封ぜられると、直ちに家老の林能勝[よしかつ]に命じて水陸交通の要衝を押さえているこの川島城を修築し、徳島城防衛の前線基地として「阿波九城」のうちで特に重要な城の一つとしたのであった。

 その後廃城のやむなきに至ったが藩の役所がおかれ、幕末には「様式調練所」を置いて兵士を訓練した。

 明治3年、川島城跡に「西民政所」を設けて西阿4郡をおさめた。その後地方裁判所や税務署・その他の官公署などが集まり、今も川島町は麻植郡の中心地であるといわれている。とはいえ、台地の下や山麓では米をはじめビール麦やブドウ・ミカンなどの果樹類も栽培され、ニンニクは町の特産品で、町の基幹産業はやはり農業である。

 城山にのぼって本丸跡の「岩の鼻」に立つと前方に阿讃山脈、その手前に善入寺島、そして好天には西方の高越[こうつ]山から東は鳴門方面まで一望にはいる景勝の地で南に上桜公園を背負う。

 「岩の鼻」は高さ50mほどの切り立った崖で、その下は吉野川の流れが悠々と徳島へ向かう。

 藩政時代から明治・大正時代までは、人も荷物も川船の輸送のみに頼り、川筋の船着場を「浜[はま]」と呼んだ。池田・加茂・貞光・脇町、そして川島の岩の鼻浜など、いずれも良港として栄え、下り船には木炭や木材の他に藍や雑穀類を積み、上り船には米や肥料や雑貨・建築資材などの運搬が主で、池田から徳島まで2日間を要した。上りは風向き次第であるが普通下りの2倍あまりもかかたという。

 善入寺[ぜんにゅうじ]島(宮島)は、その名のように吉野川の中にできた最も大きい中州で、現在は肥沃な水田や園芸農業地帯であるが、昔から風水害の常習被害地であった。

 仁木町の開祖仁木竹吉は此処の出身で、代々葉藍作りや藍玉製造に携わっていたが、水害の辛酸をつぶさになめていた。あまつさえ藍の価格が大暴落して吉野川畔の農民は生活困窮者が続出した。

 仁木竹吉は、これらの農民を救うべく新天地北海道への移民を決意した。「厭[いと]うまじ君と国との為なれば、身は北海の土となるとも」と、その決意のほどを示し、村民の見送る中を川島の浜(河港)を後にした。時に明治12年、秋も酣[たけなわ]をすぎていた。

 川島町から掘割峠を越えて美里村へはいる。四国山地の山稜線に囲まれた鈍山村で狭い谷間や山腹面が散在していて平坦地が乏しい。ここに人口2000人余りの村人が梅や茶や葉煙草、それに蚕を養い杉の人工林や木材加工にいそしんでいるという。

 この山村に旧庄屋の屋敷が残っていると聞いたので現地に当って見ると残念、昨年解体したばかりだった。しかし、城のような高い石垣の上に格式のある重厚な門構えの建物が残されていて、僅かに昔時を偲ぶことができた。

 帰り路、この村を貫流する川田川の流れの美しさにふと足を止めていたら「この川は昔ながらの清流で、ホタルの里として名高く国の天然記念物になっている」と地元の人に教えられた。

 ホタルと言えば仁木町でもいたる処で見られた。特に仁木神社下の水田や畦道などに多かった。シーズンともなればホタル篭[かご]や提灯をさげた子供達で賑わった。それはもう60余年の昔のこと。種川もフレトイ川も中の川もみな清流で、飲用水にさえ使っていた。

 山川町の山瀬駅から忌部山にのぼる。粟の国(阿波国)を開拓したと伝えられる忌部氏の祖神天日鷲命[あまのひわしのみこと]を祀る。その境内にあった麁服[あらたえ]織殿は、大正・昭和の大嘗祭の時、古例に従って忌部氏直系といわれる三木氏が麁服献上の命を受け荒妙[あらたえ]という麻の布を織って貢進したときの織場であったという。平成2年11月の大嘗祭には、木屋村三木家の当主三木信夫氏が「御衣御殿人[みそみあらこうど]」として麻糸で織りあげた麁布「あらたえ」を天皇に奉ったという白木造のその織機が拝殿の一隅に飾られてあった。

 穴吹町にある岡本監輔[かんすけ]の生家を尋ねる。三島の丘へ登る路ばたに「岡本監輔宅趾」と彫られた1m余の石碑が風霜に苔むしたまま建っており、その後方に古い建物がそのまま残っている。これが監輔の生家である。

 今は三谷某氏の所有とのことで当主に会ってみると、監輔関係の資料は何も残っていないという。

 岡本監輔の略伝はさきに『ふるさと再発見』で書いた。彼は、樺太探検の志士であった。即ち、樺太土民に対する愛情と国内の失業武士救済のためには、北地に日本人を送りこむことこそロシアの領土欲を免れる方策であると確信していた。

 明治元年300人の移民を引き連れて樺太へ渡ったが、ロシアの進出のため明治政府は樺太を放棄したので、監輔は移民と政府の板ばさみになり、やむなく職を辞した。

 明治24年、千島エトロフ島に渡り開拓を企てたが、議会で否決され雄図は空しく崩れた。しかし明治36年2月、齢66で死去するまでその心は、北辺の領土にうばわれていたという。

 北方領土問題がとり沙汰されている今日こそ、岡本監輔の偉業を再考すべき好機ではあるまいか。

吉野川

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p30-39: 8吉野川の岸辺 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).11,12, 1992(H4).1,2,3,4,5

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