ヨイチ越えの山道

 現在の共和町国富から、稲穂峠を越えて仁木町を通り、余市に至る道路をかつて「ヨイチ越え山道」と呼んでおり、つい最近まで上山道[かみさんどう]村(大江)、下山道[しもさんどう]村(豊丘)の地名が昔の山道筋の名残をとどめていた。

 この山道が完成したのが安政3年(1856)の秋であるから、いまから数えて120余年ほど前のことである。ところがこの道が開通するまでには、長い道程があった。

 それは170余年前の文化年間まで遡らなければならない。

 当時徳川幕府はロシアの南下策などによって、国防の急務を感じエゾ地の探求を急ぎ、樺太や千島に近い北海道の東海岸を直轄地としていたが、更に当時西エゾ地と呼ばれていた西海岸も、直轄地として津軽や南部藩の増兵をし、秋田庄内藩にも出兵を命じて警備に当たらせると共に、アイヌの慰撫、農業開拓、道路開さく、漁場開拓や住民を安定させることなどに力を尽くした。その中にあって幕府は文化3年(1806)に目付遠山金四郎、勘定吟味役村垣左太夫を福山から西海岸を巡視させたが、この復命書とも言うべき西エゾ日記の中に「この沢合、つまり共和町の原野からヨイチ場所に通ずる道はあるそうだが、春のカタ雪の節はアイヌは通るけれども、雪どけの頃から秋までは岩や木の根につかまる道もなく、アイヌ人さえ往来ができないそうなので調べさせた。此の道が出来たら神威岬の難所も避けられるばかりか、日数も短くなるので早く新道を開く必要がある」という意味の報告をしている。

 彼らの報告によりその後の幕府の要請もあって、岩内場所、古宇場所、余市場所の請負人三名が番人一人、アイヌ人24人を出し合って、草や木を刈り分けた程度の極めて不完全なものであったが、3年後の文化6年(1809)にこの道路は開通を見た。

 これは当時の世論であったが、遠山金四郎一行の巡視による影響が大きかったと考えられる。

 これが「ヨイチ越え山道」と呼ばれる最初の道路であった。

 文化3年の遠山金四郎の巡視から40余年後の安政元年(1854)に目付け堀織部正、勘定吟味役村垣与三郎が、幕府の命でエゾ地を巡視し、安政2年に提出した意見書に「長万部から黒松内を経て寿都、磯谷に新道を開き、磯谷から北(奥地)は増毛まで所々に山道を開さくして宗谷、斜里に達するのが急務…」として、北海道西海岸沿いの新道路開さくの必要性を強調している。

 時あたかも、国内では勤王、佐幕の対立抗争、外からは米国のペリー、ロシアのプーチャンなどの来航があって、時局は内外共に多事多難を迎えていた折で、国防上新道開さくの必要性を強調した背景の一つでもあると思われる。しかし箱館奉行は他の急を要する台場の建設等の事業が多く、それにひき比べ西海岸の場所請負人は鰊の好漁で資力があり、その漁場への出稼ぎ人も多く労働力も豊富であったから、各場所請負人を諭して道路開さくの寄付をさせ、ある所では橋銭をもって経費を作る方法で出願者に許可した。北海道史には「ヨイチ山道は文化六年後荒廃す。安政三年岩内場所仙北屋仁左衛門、古宇場所福島屋新左衛門、余市場所竹屋長左衛門、忍路場所住吉屋徳兵衛が幕府の趣旨を奉じ私財を投じて作った・・・」とある。なおこの工事は次のごとく分担した。

・岩内から岩内境(稲穂峠)まで6里余(24km):岩内場所請負人仙北屋仁左衛門、古宇場所請負人福島屋新左衛門、余市場所請負人竹屋長左衛門、忍路場所請負人住吉屋徳兵衛の4人が開さくした。

・岩内境(稲穂峠)より然別まで凡そ3里半(14km):余市場所請負人竹屋長左衛門が開さくした。

・然別からトワプニ(トマップ)まで約1里(4km):忍路場所請負人住吉屋徳兵衛が開さくした。

・トワプニから川村(大川町)まで約2里(8km):余市場所漁民達数人で開さくした。

 こうして岩内・余市間の道路は安政3年11月竣工、その延長12里20余町(約50km)、道巾2間(3m60cm)、その中間の稲穂峠下に宿泊所(通行屋)を建て旅行者の便を図った。

稲穂峠の絵図(安政4年、目賀田帯刀画)

 さらに安政5年8月、余市運上屋からヌッチ沢を通りヨイチ山道(然別)に至る新道を開さくした。この工事は然別から砥の川を経て尾猿内[おさるない]の山を越えて下山道(豊丘町)へ下る路であるが、この新道工事に余市に在勤していた足軽桐谷太兵衛が大いに尽力したので、その姓をとって桐谷峠と呼び、今なお当時の労苦の跡である峠道の一部が旭台の大森正氏の地所わきに残っていて、当時を偲ぶことができる。

稲穂峠の旧道跡

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p18-21: 5ヨイチ越えの山道 --- 初出: 仁木町広報1981(S56).8,9

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