開拓当初の古老達の言い伝えによると、秋ともなれば鮭が川面に盛りあがるように遡上し、手近にある鍬や熊手などでかきよせたり、岸辺にあふれたのは手づかみで捕獲されたほどだったという。
大塚清十氏の「開拓当時の思い出の記」には「…新墾も生易しきものにあらず、冬に入り生計費の補いとして余市川にて鮭を捕獲し、父母(文平夫妻)はこれを自作の橇につみ、余市(沢町)方面に運搬し、一尾二銭乃至[ないし]三銭にて売りて生活費を得たり…当時余市川や種川や種川は鮭の遡上おびただしく、毎朝川の沿岸を少時歩くことによって、獺[かわうそ]の鮭を捕り頭の一部を食し魚体の殆ど全部を捨ててあるもの十余本(尾)を忽[たちまち]ち拾うことを得たり…」と。
種川(後志種川) 仁木の沃野を蛇のようにうねりながら余市川へ注いでいる(昭和40年ごろ) |
種川はもとアイヌの人達が「イチャン・コツ・ベツ」と呼び「鮭や鱒の産卵場のある川」のことをさしていた。根室の伊茶仁(イチャニ)空知の一巳(イッチャン)恵庭の漁(イザリ)長沢西の漁別(イザリベツ)など、全道的にみても鮭や鱒の多く遡る大川筋に多く分布している。
仁木の種川もそのイチャン(産卵のために掘った穴)即ちわれわれが一般にいうホリ場がいたるところにあったのであろう。
現在は、その下流から改修工事が進められているが、仁木神社橋付近から上流は昔の姿そのままで、その屈曲部や古川の跡には、ところどころ湧水池などが残っている。
昔の面影をとどめている種川 |
南町3丁目の田中氏地所わきには、多量の湧き水が年中吹き出しているし、仁木神社通りの森氏や井内氏の地所付近の道路ぞいにも、冷たくてきれいな水が湧き出る場所が幾つかあって、それらは養魚池などに利用されていたこともあった。
このような川すじの湧水地付近こそ鮭や鱒の産卵には絶好な場所で、イチャン(ホリ場)の集中していたところであった。
川に遡る鮭は何も食わず一心不乱に目的地の産卵場所を目ざす。やがてそこへたどり着くとメスは最後の力をふりしぼって、川底の小砂や砂利をちらし直径1m以上・深さ30 - 40cmばかりの穴をつくる。オスは周囲に目を光らせる。掘った穴には同時に放卵放精をすませた後はメスには卵の上に砂利をかける仕事がある。穴を掘り卵を生む行為をくりかえした後はやつれて死に、流れ下るこれらの鮭は「ホッチャレ」と呼ばれて鮭の一生は終わりを告げる。
種川は緩やかな扇状地上を流れているので河床には小砂利が豊かであり、その上水質や水温も鮭の産卵には好適な自然環境をもつ川であったと言うことができよう。
なお、この稿を草するに当たって、三木明、井内常市、湯浅納の各氏よりいろいろとご教示を得た。
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p58-59: 22種川と鮭 --- 初出: 仁木町広報1983(S58).6
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