近年その耕作技術などが著しく進歩し、今では米の収量も反当たり10俵をこえるようになり、昭和初期のそれに比べると2.5倍以上にも及んでいる。
仁木町の米作りは、明治30年ころから目立ってきたが、それは開拓当初から手がけてきた藍作が不振になってきたので、その跡地を水田に切り替えるようになってきたからである。
従って、はじめは水利のよい種川筋の低地や、当時谷地(泥炭地)と呼ばれていた現在の稲園地区にかけて拡がっていった。
ところで、仁木町で最初に米を試作したのは明治17年に粟屋貞一氏の指導で、大江2丁目大江神社下の水野兵三郎氏の地所であった。約3畝(3a)を造田耕作したが、この年は天候に恵まれずその上耕作の方法も不慣れであったせいか失敗に終わった。
しかし、翌明治18年には苦心の甲斐があって玄米2斗4升(約36kg)を得た。少量とはいえ仁木町で初めて米が実ったのである。
明治25年、仁木町北町2丁目安崎京一氏の祖父にあたる安崎主馬蔵氏は、当時黒川村毛利農場(事務長粟屋貞一氏)の世話人であったが、水田耕作を思いたち、農場の東に当たる丘陵下の沢目(現在水田の沢)をえらんで造田し、前田村から種子籾[たねもみ]を取りよせて耕作した。「鹿より」という品種で芒[のぎ](針状の毛)が鋭くて長いので田畑を荒らす鹿でさえ近寄らないほどの代物であったらしいが、米には粘り気があり味もよかったという。
安崎氏は毎年造田を続け、5年後には5反5畝(55a)に及び、収量も反当たり3俵(約180kg)くらいも穫れるようになった。
近隣の農家もこれに刺激されて米作意欲が高まり、黒川村は造田ブーム。その波は仁木村へも拡がってきた。時あたかも日清戦争が終わりをつげ、北海道の米作もその機運にのってきた時代であった。
さて、北海道の米作は道南地方の一部で明治以前から行われていた。それは元来、東北地方産の「白毛[しらひげ]」という品種であったが、ある年激しい冷害に見舞われて全滅した。
しかしその白毛種の中に、赤い毛[ひげ]をつけた稲の穂が生じていて、それだけで結実した。つまり冷害に耐える新しい品種が突然変異によって生まれたのであった。
明治6年、広島郡島松村の中山久蔵氏は道南から手に入れた「赤毛[あかひげ]種」の苗を風呂の水を使って育て試作に成功、その後内陸に適する地米を作り出し、これを石狩地方から各地へ広げるのに努力した。
大江の水野氏の地所ではじめて穫れた米や、仁木の安崎氏が前田村から取りよせて耕作した「鹿より」と呼んでいた毛の長い稲は、この赤毛種の系統であったものと考えられる。
明治25年、札幌郡琴似村の江藤庄三郎氏兄弟は、掘り抜き井戸をつくって畑地の一部を水田にして稲作をはじめた。品種は前記の中山久蔵氏によって伝播された赤毛種であったが、2年後に江藤(弟)氏が70a程の田に1株2穂だけ毛の無い(無芒)ものがあるのを発見した。
江藤氏兄弟は、よけいなヒゲがついていないのだから、普通の収穫があるのなら調整作業に都合がよいだろうと考えて、翌年この無芒種を実験的に栽培した。毛が無いのでこれに「坊主」と名づけた。坊主種はたしかに調整作業には好都合であったが風害で倒れやすいという弱点があった。
明治34年、上川郡東川村で開拓農牧民次郎氏が赤毛種から変化した「黒毛」を選びだした。黒毛は赤毛や坊主より早熟で寒冷地向きの品種として誕生した。
道南地方では、明治26年、檜山郡泊村の井越和吉氏が味の秀れた「井越早生」を、また明治33年、亀田郡大野村の松田泰次郎氏は「松田早生」をそれぞれ改良して種々の品種がうまれた。
こうして東北地方産の白ヒゲが冷害で全滅した際に赤毛が生じ、赤毛から坊主や黒毛などが生まれた系統を辿ってみると、北方に伝播するにつれて「種[しゅ]」は風土と微妙にかかわり合い、より北海道の風土に適応して実る変異を生じたもののようである。
明治末には北海道の稲の約8割が赤毛種であったが、大正初年代には赤毛種3割3分、坊主種3割、黒毛種2割に推移し、昭和の統計では坊主種が本道稲作の大部分を占めるようになった。それは仁木でもほぼ同様であった。
ところで仁木村では、明治30年過ぎから造田がすすむにつれて、その潅がい用水路の必要に迫られた。折から明治34年12月、森銀之丞氏を代表に笠井栄蔵、森吉重、和田栄吉、和田平八、坂東友蔵、佐々木喜市、湊浦次郎、新開熊蔵、塩谷秀吉、林伊平、末広要一、在竹セツ、林安孝の各氏は共同して裏道路や中道路沿いの各所有地を造田し、フレトイ川より灌がい用水路を掘削する計画をたて、その後の運用などに関する協議要項などをきめてその契約書を取り交わし各自資金を出し合ってこれにあたった。
現在の瑞穂や金光地区の水田の大部分はこの時造田されたものであり、その溝きょの一部は今も原形をとどめている。
灌漑用水路、 松川役蔵氏が設計し開削の指導をした |
これらの土木工事は、本道にまだ土功組合もなかった時代のこととて、自己資金による申し合わせの私設の組合とも言うべきものによったが、仁木町の米作史の上では特記すべきことであろう。
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p104-107: 43仁木町の米作 --- 初出: 仁木町広報1985(S60).5,6
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