安政4年の春、箱館奉行の村垣淡路守は、新しく切り開かれたヨイチ越山道を検分のため岩内からイナホ峠を経て余市へ越えたが、その道中「新道地名甚覚エ兼候、夷言二付早々改メ候様、和語二直シ・・・」と、新道沿いの地名が皆アイヌ呼びではなはだ覚えにくい。早く和名に直すようにと、当時ヨイチ場所在勤の下役平島庄一郎などに申し渡した。
そこで、アイヌの人たちの言うシ・カリ・ペツは「廻る川(シカリペツ)とか、自分(シ)を廻す(カリ)川(ペツ)」との意味であったので廻川[まわりかわ]と改名したが、地元の多くは従来通りシカリベツと呼びならわし、後、漢字を当てて然別とした。
余市川へ合流する然別川 |
ところで当時然別の山野は原始の樹木に覆われ、トド松、ナラ、イタヤをはじめ有用な雑木類も多かったので、早くからヨイチ運上家や鰊番家が建築様材や船材、漁木、薪材などを求めて木樵や造材人夫などが多く入りこんだ。冬季伐採したものは雪ソリで引き下げ、雪どけの増水を待って川流しで余市へ運んだが、然別川が余市川へ注いでいる共進部落あたりがその中心地であった。
ヨイチ越山道が七曲りから丸山麓の石坂をこえると然別川に大橋がかかっていた。この橋をはさんで右岸には御休所、左岸に炭焼番屋があって旅人はここで休息したり昼食をとったりした。
文久3年に記したヨイチ運上家(林家)に伝わる古文書『ヨイチ越山道継立仕法』によると、この山道筋には人馬の継立をして旅の利便を図った継立所がいくつか設けられていた。岩内と余市で用意した立馬50疋[ぴき]、立人足(人夫)55人のうち馬16疋、人足17人は然別で扱った。
馬と人足は、然別の御休所を詰所にして旅人の求めに応じ、ルベシベ(現大江3丁目)の笹小家と呼ばれた御泊所へ人や荷物を運搬した。ルベシベの御泊所にも馬18疋、人足21人が詰めていて、引き継いだ人や荷をイナホ峠を越えて岩内領のシマツケナイ(国富鉱山付近)の御泊所に至り、岩内側へ引き継いだ。
然別は山子や炭焼き、それに流送人夫など大勢入りこんでいたばかりでなく、ヨイチ越山道の休憩所や人馬の継立詰所が設けられるなど、いわば交通の要地でもあった。
川向いの船つき場には御昼所があり、その向かいには酒や肴[さかな]、そばや駄菓子など並べ、軒先に草鞋[わらじ]などぶらさげた煮売小家なども何軒かあって、山あいの然別にちょっとした賑わいをみせていた。
明治17年、鈴木某氏が然別川下流平地(旧共進部落)の払下げを受け、小作人を入れて農耕をはじめたが故あって、間もなく田中平八氏の所有地に移った。
明治19年、田中氏はポン然別川上流に発見された然別鉱山の採掘に着手し、数年後には北海道鉱山株式会社を設立して金鉱石を越後の佐渡鉱山に売鉱していた。
しかし、然別鉱山は有望な金、銀、銅、亜鉛、鉛などが産出するので、明治28年、田中鉱業(株)が地元に精錬所を建設し鉱山の規模も増大し、最盛期の明治30年頃には鉱山社宅300余戸、それに多くの商店が軒を並べ、私立の尋常高等小学校が設けられたほどであった。
ちなみに「小樽郡量徳尋常高等小学校修学旅行慨記」に、明治31年初冬、小樽量徳小学校高等科4年生43名が小樽から徒歩で余市を経て然別を訪れ、ポン然別鉱山精錬所など見学し、その概況をのべているが、当時の然別は各地からのこうした修学旅行などの好適な地でもあった。
明治31年の調べでは、金約16貫(60kg)、銀約1,500貫(580kg)、その他鉛などが産出していて北海道有数の鉱山として世に知られた。
明治36年、鉄道が通じ、当時トマップと呼ばれた余市川のほとりに現在の然別駅が設けられ、ついで38年、北海道鉄道会社線(函館本線)が全通し、駅前には運送店、旅館、雑貨店、待合所などが並び、大正中期には鳥海亀太郎氏が然別駅構内で弁当(鶏肉[とり]めし)の立ち売りをしたこともあった。
ところがこの間、銀の価格が暴落し然別鉱山は急に閉鎖の止むなきに至り、その後、三井あるいは久原鉱業などに代わって休山と稼働を繰り返していたが、昭和28年、北進鉱業(株)が経営に当たり、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガンなど採取し、また隣の稲倉石鉱山を買収して総合的に地下資源開発を行って現在に及んだが、資源枯渇で止むなく昭和59年の秋、休山することになった。
「栄枯盛衰は鉱山業の常」とも言われるが然別鉱山もその道を辿らざるを得なかったと言えよう。
人気のまばらになった然別の野に取り残されたかのような然別川。しかしこのかわただの川ではない。太古の地変で大地が裂けて断層が四方八方に走った。その断層の谷に沿って然別川や余市川の流れが誕生したのである。
この谷合いには今もなお赤井川火山活動の名残とも言うべき温泉が赤井川や仁木、余市など点在し、然別鉱山内にも相当高温な湯が湧き出しているという。
然別川から大江1丁目にかけた平地一帯は、その地体構造などからみて温泉が潜在する可能性が多分にある地域と考えられているが、「この地熱を開発して地域産業の振興に」などとは一場の夢物語であろうか。
然別の市街地と鉱山社宅付近(航空写真) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p110-113: 45然別雑記 --- 初出: 仁木町広報1985(S60).8,9
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