ところが、この山の西側の然別方面から仰ぐとその山容は一変して山頂はとがり、山腹にはおびただしい灰色の岩塊が崩れ落ちている。これは安山岩の一種で頂白山から噴出した熔岩流が風化したもので、近づいてみると中には大きな板状や箱形に割れたもの(節理)も目につく。かつてこれに目をつけた余市の某石工が碁石などの石材に切り出したこともあるという。
頂白山は大昔、アイヌの人達がフレトイ山と呼んでいた。「フレトイ」とは「赤い土地」のことで、この山の東や北側の丘陵地は赤土のところが多く、特にフレトイ川の中流一帯にそれが著しい。地質的には赤井川ロームと呼んでいて、元来、赤井川火山や頂白山の火山灰が堆積風化したもののようであるが、酸性で粘土質に富み、一般的には重粘土壌に近い。
ところで、明治44年4月に、仁木竹吉氏が書いた『仁木竹吉遺稿集』には、頂白山について「はじめ定白山[じょうはくさん]と称したが、この山は余市郡第一等の高山で山上は9月頃雪降り翌年6月解雪、その後は常に白雲去来し・・・ので常白山[じょうはくさん]と号えるようになった」とあり、当時の村民もそのように呼んでいたようである。
現在のごとく、頂白山と記載されたのは、大正6年、旧陸軍参謀本部が測量調査した5万分の1地形図が最初であって、明治23年及び明治29年製版の地形図には、頂白山や大黒山の記載はない。フレトイ山は別としても常白山が頂白山になぜ変わったのか、そのいきさつは今のところわからない。
さて、頂白山の麓に開拓の鍬が打ち下ろされてからここに100余年、その間朝な夕なに仰いできた温和な山容は、いつとはなしに村人の多くに敬慕の心情をいだかせたのであろうか。大正時代の仁木小学校運動会応援歌の一節に、
垂り穂の稲の里空の
護り神なる頂白山
我らが心表して
勝誇りかに聳えたり
また昭和初期には、
陽も麗らかに空晴れて
仁木平原に風かおる
頂白山は峰高く
四隣の草木春深し
と、この歌詞は戦後もしばらく歌いつがれていたという。
現在の仁木小学校校歌にも余市川の清流と秀峰頂白山が歌いこまれていて、頂白山は明らかに仁木のシンボルになったと言えよう。
頂白山 |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p116-117: 47頂白山 --- 初出: 仁木町広報1985(S60).11
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