ライクロハッタリとシュプントウ

 ヨイチ運上家や北大図書館にあった古い記録類を読んだ。

 ヨイチ付近にまだ和人が定着していなかった頃からアイヌの人達が食糧など耕作していた。それは余市川の下流仁木と余市の町境にあるライクロハッタリやシュプントウ付近であったという。

 ここは余市川が蛇のくねったように曲流したところで、そこには古河の跡が三日月型の沼となっていくつも残り、昔から洪水の多発地域でもあった。

 現在、流路は直線化され、川はギブスをはめられた様に人工堤防が設けられているが、かつてはアイヌの部落が点在していたのであろう。

 ライクロハッタリは仁木町北町12丁目の余市川筋にあった。それはアイヌがつけた地名で「死人渕」と訳されている。彼らの同胞の生命を呑みこんだ恐ろしい魔の深淵のことである。
 その隣に続く三日月沼はシュプントウで「ウグイ(シュプン)が多くとれる沼(トウ)」を指していた。

 アイヌは元来、ケモノや魚類を漁り野草採取などに依存した生活であったが、その後和人の鰊漁場などへ労働を強いられるようになった。従って食生活も和人にならって穀食がとり入れられるようになり、粟、稗、ソバをはじめイモなども自給用に耕作するようになった。

 耕作といっても、鹿の角か股木で作った道具で草むらの土をかき廻してそこへ種子をバラ蒔く程度であって、土よせはもちろん、除草もほとんどしないから収穫時には雑草の中に点々と粟や稗の穂がたれ下がっているだけなので、カラス貝などの貝殻で一穂ずつ摘みとる程度であった。和人から伝わった鉄製の鎌もあったが、それはヨシ、カヤを刈る道具で穀物を刈るものではなかった。

 粟や稗の耕作はもちろん、穀食のためであったが、むしろ酒造りの原料にあてたようである。

 余市川の下流は水はけの悪い低平地で、昔から洪水に弱い地域である。しかし、河川が氾らんするところは土壌は肥沃であり、また川の両岸には地盤の高まりをみせている自然堤防がある。そんな地形は洪水からまぬがれる場所でもある。

 春から秋にかけて遡上するウグイ、鱒、鮭などを漁り、冬は山野にケモノを追ったアイヌ達にとって、うってつけの居住地であり農作するにも好適地であった。

 ライクロハッタリは、昭和48年3月まで仁木町の旧地籍図に、シュプントウは明治4年、旧会津藩士が入植したおりの開拓使の文書に、「余市郡 シプント(シュプントウ)開墾場着 農民人別帳」と、それぞれ古記にはとどまっている。

 我が郷土の農耕の先駆の地ともいうべきであろう。

1ライクロハッタリ 2シュプントウ(明治29年版 仮製5万分1図)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p82-83: 33ライクロハッタリとシュプントウ --- 初出: 仁木町広報1984(S59).6

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