トマト作りの由来

 近ごろは温室栽培のおかげで冬でも珍しくなくトマトが食べられる時代であるが、旬はずれのトマトは色が冴えず本来の味が出ていない。

 その点、仁木のトマトはほとんどが露地ものだから、色つやが鮮やかで味も申し分ないほどである。従って最近生産が急に上昇し、道内はもちろん、東京の市場にも進出して好評。その生産額もりんご、ぶどう、さくらんぼなどと肩を並べるようになった。

 トマトの原産地は南米ペルーであると言われている。謎の国インカ帝国のあったところで、トマトはこの国で古くから栽培されていたらしい。

 アメリカ大陸発見後、トマトはヨーロッパ各国へ伝えられ、ついで世界の隅々にまで拡がっていった。一番早く普及したのはイタリアでイタリア料理はほとんどトマトソースを使うため赤く、イタリアとトマトの縁は深い。

 我国へ渡来したのは明らかではないが、トマトの最初の記録は宝永6年(1707)、貝原益軒が著した『大和本草』に出ている。当時はトマトを「唐柿」と呼んでいたが、食用として利用したのではなく、最初は観賞用植物として栽培したようである。

 明治初年、北海道開拓使によって米国などがら野菜の一種として輸入され、その名も赤ナス(蕃茄)、蕃柿、六月柿などと呼ばれ各地で試作された。しかし一般の嗜好に合わず、大正時代末までその栽培は振るわなかった。昭和にはいってからようやく食品としての価値が認識されてから栽培が普及し、品種改良もすすめられていった。

 トマトが仁木町に入ったのは大正初年らしいが、当時仁木小学校の農業実習地で結実したのが最初の記録であろう。

 当時、小学生であった漆原辰三郎氏や村田勇氏の話によると、トマト作りは西田豊平校長(田中潜氏の父)が自ら指導に当たった。まず馬糞などを混ぜ込んだ堆肥に米糠を入れ、よく踏みこんで苗床を作り、播種から間引き、苗の移植、支柱たて、わき芽かき、摘芯(三段仕立)など、いわばトマト栽培の基本を教えこまれた。しかし柿のように真赤にうれたトマトを試食した時は、一口噛み付いて吐きだしたり、鼻をつまんで目を白黒させるなど、当時としては特異な味や臭いに誰も食えるものはいなかった………。

 その後まもなく、仁木のトマト栽培は平地一円に拡がり、大都市むけに出荷されたり、当時我国の領土であった樺太へりんごや味瓜と共に小樽港から盛んに移出した。また一時期、仁木信用購買組合(産業組合)で農産加工場を設け、トマトピューレやトマトケチャップを生産したこともあった。

 戦時中は食糧増産優先で、トマト栽培は不振。第二次大戦後、パン食など食生活の急激な変化は今までにないトマトの需要を招くようになった。

 仁木にトマト作りが始められてから70余年、現在の盛況を見るに至った。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p84-85: 34トマト作りの由来 --- 初出: 仁木町広報1984(S59).7

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