桐谷峠

 桐谷峠、それは仁木町旭台(オサルナイ)から余市富丘(下山道)へ越える峠につけられた呼び名で、仁木神社付近からこの峠道を遠望すると旭台の山並みが馬の背のように走っている。その最も低い鞍部になっている所が桐谷峠で、そこは大森正氏の地所のわきにあたっている。

 今はこの峠道を辿る人影も絶えて久しく、桐谷峠という呼び名さえ忘れ去られようとしている。しかし最近、この地域一帯に国費や道費で畑地灌がい事業が進められ、余市・仁木両町を結ぶ舗装道路の完成も間近いと聞く。また、体育の日には「桐谷峠の歴史を辿る」町民のハイキングなどの行事行われるようになり、桐谷峠の名もカムバックのきざしがみえてきた。

桐谷峠をのぞむ

 元来、岩内から稲穂峠を越えて余市に至る新道は安政3年から安政5年にかけて開削されたが、これを「余市越え山道」と呼び、余市から更に小樽、石狩を経て増毛、宗谷に伸びる幹線に連なるもので、言うなれば現在の国道5号線よりも重要視されていた路線であった。

 幕府はこの道路の完成によって北辺の警備を一そう強めると共に蝦夷地の開拓、住民の奥地進出を奨励する意図でもあった。

 余市越え山道の開通によって、オカムイの難所はさけられ旅の行程は短縮し、四季を通じて人馬の通行が可能になった。

 安政4年5月、箱館奉行・堀織部正一行30余命は、道路開削、土地利用の状態、民情視察などでここを通って小樽、石狩に向かったが、この行列の中には『入北記』の著者玉虫[たまむし]義[ぎ]や島団右衛門(義勇)も加わっていた。後のこと、島義勇は明治2年、開拓使判官に任命されるや今の北海道神宮なる開拓神社の御霊を奉持して、直ちに函館から陸路を辿って再び余市越え山道をえらび、桐谷峠を越えて札幌に赴いた。

 蝦夷地の探検家であり、箱館奉行の役人でもあった松浦武四郎は、安政四年、余市越え山道を歩いてその詳細な観察を地図や日誌類に記録した。「岩ほ切り、木を苅り草を刈りそけて、道たひらけし山のとかけも」と、その労苦に感じ入り、次いで仁木から余市にかけての広い荒野をみて「この様なよい土地を開拓せずに棄て置いてあるのは余りにも惜しいことである」となげき憂えている。

 余市越え山道を辿ったのは箱館奉行の見廻り役人ばかりではない、出稼漁夫、小商人[こあきんど]、旅芸人それにやん衆相手の女達など、殊に海岸各地に鰊が上がりはじめると往来は急に賑わったという。

 桐谷峠越えの道路は、安政5年8月に完成した。余市場所住民一同が協力してヌッチ沢通り(豊丘)から砥川口までの新道を切り開いたが、当時余市町に在勤していた箱館奉行の足軽桐谷太兵衛が大いに尽力したのでその姓をとって桐谷峠と呼ぶようになった。

 幕末から明治維新にかけての険しくそして慌ただしかった世相、その数々をじっと秘めている桐谷峠の道筋は、また、ふるさとの歴史を辿る道すじでもあると言えよう。

桐谷太兵衛地蔵尊
余市町宝隆寺にある

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p90-91: 37桐谷峠 --- 初出: 仁木町広報1984(S59).10

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