阿波国の移民が仁木の地を発見するまで

 仁木町(仁木地区)は、明治12年11月、阿波[あわ]国(徳島県)から仁木竹吉に引率された農業移民団370余名が、はじめてこの地を踏んでから今年で満110年目を迎える。

 「厭[いと]うまじ君の国との為なれば、身は北海の土となるとも」と、今は仁木町の開祖として町民から仰がれている仁木竹吉氏は、北海道の開拓にその身命をかける臍[ほぞ]をかため、時の開拓使長官黒田清隆の心を動かして単身北海道各地を巡検調査すること4カ年、ついに彼は仁木の地を選びぬいて移民の地と決めたのであった。

 仁木竹吉氏は阿波国麻植[おえ]郡児島村(川島町)で先祖伝来の藍玉[あいだま]の製造に従っていた中流以上の資産家で、企業性で実行型の人柄であった。

 時あたかも幕末から明治維新にかけての戦乱や大政変で、民心が動揺している矢先、吉野川流域一帯は相次ぐ風水害に見舞われ、家屋や農耕地に大災害をこうむったが、特に北方[きたがた]と呼ばれる吉野川の中・下流に広がる藍作の中心地帯がはなはだしかった。其上にインド産の藍が輸入されるようになって、国内産の藍の価格が大暴落したので、この地域の農民は生活困窮者が続出した。しかし、当時としてはその救済の方途が全く立たなかった。

 仁木竹吉氏はこの農民らの惨状を救うために、新天地北海道への移民を決意し麻植・阿波郡長蜂須賀昭邦を通じて「千思万考ノ末………北海道移住策ノ急務ナルヲ悟リ………荒蕪[こうぶ]ヲ開キ貧民ヲ誘導移住セシメ就産ノ結果ヲ得シメ………」と、その固い決意のほどを示し、県庁へ移民願書を出して聞き届けられた。

 北海道渡航の許可を得た仁木竹吉氏は、前期の歌を残して北海道の地に身を挺する決心をし、いよいよその準備にとりかかる。時に明治8年2月、竹吉氏41歳の壮年者であった。

 まず、東京日本橋に屋敷のある旧徳島藩主蜂須賀茂韶[もろあき]を訪問して北海道移民策を相談して共鳴を得た上、紹介状をもらって、東京芝の開拓使出張所を訪ねて友人岡本監輔[かんすけ]に力添えを得、ついで開拓使長官黒田清隆に会い、原野を開墾して麦や豆類、それに藍草や煙草を耕作して困窮県民を救済すると共に北海道開拓に協力し、国のために益したい、そのためには百聞は一見にしかず、ぜひ北海道へ渡って調査させてほしいと懇願した。

 黒田長官と同席していた物産局をはじめ、関係諸局からの種々の質問にも詳細に応答し、ついに黒田長官の快諾を得たばかりか、開拓使御手船玄武号で黒田長官北海道へ出帆の随行を命ぜられ、明治8年3月27日、無事札幌開拓使本庁へ到着したのであった。

 明治8年3月30日、仁木竹吉氏は改めて北海道開拓使本庁へ出向を命ぜられ、黒田開拓使長官はじめ開拓使大書記官調所[ずしょ]広丈、勧業課長細川碧らに対面し、種々の質問に応じると共に所信を述べた。

 ついで開拓使備付の様式機械類の運転状況などを見学したが、ここにおいて開拓使庁は仁木氏の北海道開拓に対する情熱とその指導力や技量、特に藍や煙草の耕作ならびにその製造技術などの実力を確かと認め、特別の取り扱いをもって開拓使殖産係を仰せつけられた。

 これに意を得た仁木氏は、直ちに全道各地を巡って、藍、煙草、豆、麦など耕作の適否の実況を調査すべく、明治8年4月8日、勧業課の許可を得ると共に各国郡分署宛の添書を受けた。

 出発に先立って同郷の先輩であった元開拓使判官・岡本監輔より聞きおよんだ開拓意見はもちろん、岡本と同輩判官であった松浦武四郎の業績、殊に当時、北海道開拓に関しては必見の参考資料とも言われた松浦武四郎著の『東西蝦夷山川地理取調図』や蝦夷日誌類などに目を通していたもののごとく、それは後に仁木の土地を発見するきっかけになったと考えられる。

 まず、日高国静内郡に赴き、稲田邦植に面接、今般志願の趣旨を述べて大賛成を得、村民500人余の人々と農談会を開き、当各所を廻ってその実況を探見すること20日間におよび、ついで有珠郡紋別村(伊達市)に至り、伊達邦成に面謁の上、家令田村ケ顕允らの紹介で農談会を開設し、20日間にわたって農耕地その他情況など巡検した。

 それより渡島国亀田郡七飯[ななえ]村勧業試験場へいき、場長湯地貞基に会って今回渡航の趣旨を陳べて賛同を得た上に藍、煙草、豆、麦などの種子の注文を請け、ここでも20日間ほど滞在して試験地その他の景況を観察した。

 さらに進んで、松前、桧山、久遠、瀬棚各郡の山野を跋渉[ばっしょう]し、雷電山を経て岩内、美国、古平、余市より小樽に出て、同年12月7日、8カ月にわたる巡検調査を終えて札幌に帰着し、上局および勧業課長へその復命書を提出した。

 その後、郷里徳島県より取り寄せた農産種子類をほとんど無償で各地へ配分し、次の年からその耕作方法の出張教授などに文字どおり東奔西走すること2年半。その間各地の藍、煙草、豆、麦類の生育状況の観察に意をそそいだ。

 「諸国郡ノ山川ヲ跋渉スル殆ド四年、漸クニシテ後志国余市郡大川(余市川)ニ沿イタル肥沃ナル原野ヲ発見シタリ、又此川水清淨ニシ其ノ上気候ハ温暖ニシテ地ノ利ハ東南ニ対嚮[きょう]シ、其上運輸好便ナリ、実ニ一トシテ言ウベカラザル現況ナリ、茲ニ多年ノ宿志達セザルベカラズ………」と、仁木竹吉氏はついに現在の仁木町仁木地区の地を探しあてたのであった。


仁木竹吉翁の旧居
仁木竹吉翁が晩年の一時期住んだと言われている家(仁木町西町野村晴久氏所有)

仁木村の開拓にたずさわった人々
仁木小学校開校50周年記念敬老会(仁木小学校正面玄関前)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p202-205: 74阿波国の移民が仁木の地を発見するまで --- 初出: 仁木町広報1989(H1).7,8

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