明治時代のはじめ、徳島県から北海道へ渡り仁木村に落ちついた我々の父祖達は、原始に近い荒山を開墾して麦や雑穀の類を作り、自給自足を計りながら、阿波の特産物であった藍の栽培に意欲を燃やした。
藍作りは、郷里でも「藍の種まき生えたら間引き、植えりゃ水取り土用刈り」と、手間食い農業とも言われた。特に葉藍を刈りとって細かく刻み、直ちに庭に筵[むしろ]をひろげて唐竿[からさお]でたたく藍こなしは、短い時間内に仕上げねばならなかった。
隣近所から手間替えに集まった20人前後の老若男女が、二手に分かれて向かい合い、唐竿を交互に打ちおろすという一見単純な作業であるが、真夏の炎天下での労働は体殺しとも言われるほど激しいものであり、それにはまた仕事歌がつきものであった。
○歌いますぞションガイ節を歌は仕事のはかいきよ。
○主[ぬし]が江戸へ行く門出がよけりゃ江戸で藍玉[あいだま]繁盛する。
○阿波の北方[きたかた] 起き上がり小法師寝たと思うたら早起きた。
○朝は大根めし 昼菜めし 晩はおねばの お雑炊。
○盆がきたらこそ麦に米まぜて あいにささげがちらちらと。
○辛いもんだよ他人の飯は 煮えておれども咽[のど]こさぬ。
○讃岐[さぬき]せこいとて阿波へは越すな 阿波の北方なおせこい。
○歌はかずかず八百八かず 恋のまぜらぬ歌はない。
○花よ咲くなよつぼみでおれよ 咲いて小枝をおられなよ。
○ばんば時雨[しぐれ]に濡れてはならぬ 藍の小寄せにぁ濡れてこそ。
○置いてお帰り手拭いなりと 忘れたと言うて又ござれ。
○来いと言葉のかからぬうちに 行かれましょうか恥ずかしゅて。
○今夜 庚申[こうしん]さんへ話にござれ 鶏がうとたら寝にござれ。
○山で山鳥 どの尾の長さ しのぶその夜の短さよ。
○起きて去[い]なんせ 東が白む やがて お寺の鐘が鳴る。
○坊さんじゃと言うて首にけさかけて 晩にゃ女郎屋の門に立つ。
○お月さんさえ夜遊びなさる 娘 夜遊び毒じゃない。
○さまよいかんかよ 今宵の六つに 麦はまだあるあの畔に。
仕事がはかどっていき、仕上げまでもう一息という頃合い、「口では水仙玉椿、お手手しっかり抱き茗荷[みょうが]、足はきりりとねじれ藤………」と、ここに収めることが出来ないようなバレ歌がつぎつぎに飛び出してくる。そして作業ははずむ。
鰊馬のソーラン節の替歌にも見られる、このようなバレ歌は、労働の目覚ましであり、かつ起爆剤だったのであろう。
安いインド藍や化学染料がヨーロッパから輸入されるようになって、我国の藍作はすたれはじめる。仁木村の藍も明治25,6年頃から振るわなくなり、それにつれて藍こなし歌も次第に忘れられていく。
〽︎宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするもの何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ。
宮さん宮さん、またトコトンヤレ節とも言い、明治元年、京都から江戸へ東征の進軍歌として、参謀の一人品川弥二郎が作り、曲は大村益次郎がつけたと言われ、日本軍歌の始まりであり明治流行歌の最初であるという。
明治12年、仁木村へ入植し、その開拓にいそしんだ人々も、伊勢音頭や丹後宮津節などと共にトコトンヤレ節も大いに歌われたものだと古老は語る。
〽︎日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦[あずま]、続いて金剛、難波艦[なにわ]………。
と、日清戦争が勃発し、大人も子供も軍歌ばやり、イガグリ頭が流行しバリカンがよく売れたという。そして新しい軍歌がつぎつぎに生まれた。
〽︎敵は幾万ありとても総べて烏合の衆なるぞ、烏合の衆に非らずとも味方に正しき道理あり………。
この歌は、力強く非常に元気に満ちているので広く後代まで歌いつがれた。
『勇敢なる水兵』
〽︎煙も見えず雲もなく、風も起こらず波立たず、鏡の如き黄海は………。
『婦人従軍歌』
〽︎火筒[ほづつ]のひびき遠ざかる、跡には虫も声立てず、吹きたつ風はなま臭く紅染めし草の色。
なども広く親しまれた。
『戦友』
〽︎ここは御国の何百里離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて友は野末の石の下。
なじみ深い歌として今も残っているが、この歌は厭戦的であり、反戦的な匂いがあるとして軍から禁止されたが、しかし一般には広く愛唱された。国民は戦勝に酔う一方、その心の奥底には厭戦的な心情がちらついていたのであろうか。
日清・日露の両戦後は、国民に軍歌の悲壮美とでも言うべきものを味わせたが、抒情的な歌や唱歌調のものも多かった。
『東雲[しののめ]節』
〽︎自由廃業で廓[くるわ]は出たが、それから何としょ、行き場がないから屑拾い、浮かれ女のストライキ………。
『間がいいソング』
〽︎いやだ厭だよハイカラさんは厭だ、頭の真ん中にさざえのつぼ焼きナンテマガイインデショウ。
『人を恋うる歌』
〽︎妻をめとらば才たけて、みめうるわしく情ある………。
『金色夜叉』
〽︎熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人づれ………。
など、大正末年までも流行した。
子供の心の中にとけ入るような歌、『鳩ポッポ』、『兎と亀』、『春が来た』など、それに名曲として広く後代にまで残った『青葉の笛』、『荒城の月』、『美しき天然』など。
〽︎空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音、大波小波とうとうと、ひびき絶えせぬ海の音………。
この曲は、青年達を魅了して大流行。ただ歌われただけでなく街頭音楽(ジンタ)や活動写真、運動会などを盛りたてる伴奏に欠かせないほどの人気を集めて大正時代の終わりころまで続いた。
こうした明治の歌の流れの中で、入植、開墾そして藍や麦や雑穀を作り、次第に水田やりんご畑を広げて仁木町の基盤が固められた。
富国強兵、そして欧米に追いつけ追い越せを目指してきた明治時代が終わって、世は大正時代に移る。この時代は明治の反動とも、大正デモクラシーとも呼ばれた。
大正2年、未曾有の冷害による大凶作が東北地方や北海道を襲った。特に北海道がはなはだしく農産物の9割が減収。仁木村もその例外ではなく、食糧は困窮し米糠やおから、それに笹の実まで食用にした農家もあったという。
続いて大正3年、第一次世界大戦が勃発し我国も参戦した。
しかし、主戦場が遠いヨーロッパなので、その切迫感も悲壮感もほとんどない高みの見物的戦いだったばかりか、日本は軍需物資や日常消耗品の輸出で、国も個人も懐をふくらませた。
世界大戦でうけに入った日本の産業界は、にわか成金を生みだし、農家も豆類や澱粉などが高値を呼んで好景気を迎えた。
物を作ればうれた。買えば上がった大戦ブームは、『どんどん節』や『奈良丸くずし』のような歌をはやらせたばかりでなく、身の回りを飾り立てる成金趣味が一般にひろがっていった。
普通の畑作農家であった筆者の家でも外出の時など、父は舶来の銀側時計を絹の兵児帯[へこおび]にはさみ、兄は長髪をオールバックにしてチックでなで、それに鳥打帽をのせ、黒い絹ハンを首に巻き、おまけに白くなるほど化粧乳液を顔にぬって得意になっていた。仁木村の田舎でもしかり、成金者などの羽振りの程が知れる。
しかし、こうした平穏で享楽の次にきたものは好景気の反動ともいうべき戦後の恐慌であった。その頃の歌は
『ゴンドラの唄』
〽︎いのち短し恋せよ乙女 紅いくちびるあわせぬ間に………。
『ナット節』
〽︎朝は早よから起こされて夜は12時まで夜業して 腰がだるいやら ねむいやら 思えば女工がいやになる ナット ナット。
『流浪の旅』
〽︎流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ………。
と青年男女の間に大流行。次いで、
『船頭小唄』
〽︎おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人は此世では 花の咲かない枯れすすき………死ぬも生きるもねえお前、水の流れに何変わろ………。
と、演歌師の調べにのって街から街へ流れ、たちまち民衆の人気に投じ、明笛[みんてき]や大正琴の流行と共に広がって一世を風靡した。
それは、欧州大戦後の深刻な不況にうちのめされた民衆の嘆きを端的に現した歌であった。
一方では、『夕焼け小焼け』、『花嫁人形』、『赤い靴』、『カナリヤ』、『靴が鳴る』、『砂山』、『月の砂漠』など名曲に類するものが次々に出て子供らを喜ばせ、若い母親達は子守唄がわりに歌った。
恐慌、不況がうち続くうちに、大正12年9月1日、関東大震災が起こり、火災・津波が加わって死者9万余、家屋の全壊焼失46万という大惨事だった。
〽︎家は焼けても江戸っ子の意気は消えない………。
と、早速復興節が歌われ、『籠[かご]の鳥』や『ストトン節』が大流行。酒席ではもちろん、農作業中の鼻歌にも軽やかにのった。そして子供までそのまねをした。
大正から昭和にかわって間もない昭和4年から昭和10年頃まで、日本はそれまでに経験したことのないような深刻な不景気の時代に落ちこんだ。
都市では失業者が続出し、ルンペンは街頭にあふれ、農産物の価格暴落で農家は窮乏にあえいだ。官吏も減俸で、町村の役人や小学校教員の給料も引きさげられた。しかし、最も大きな打撃を受けたのは何と言っても農民であり、特に冷害や凶作が続いた東北・北海道地方であった。
こんな世情の中で無産政党の結成や労働争議が相次いで起こり、政府は「治安維持法」を出して対策。だが政権は軍部に傾いていく。当時の流行歌は、
『東京行進曲』
〽︎昔恋しい銀座の柳 仇な年増[としま]を誰か知ろ………。
『女給の唄』
〽︎私しゃ夜咲く酒場の花よ………夜は乙女で昼間は母よ………。
そしてモダンボーイを風刺した洒落[しゃれ]男の唄
〽︎俺は村中で一番モボだと言われた男………
そもそも其時のスタイル 青シャツに真赤なネクタイ 山高シャッポにロイド眼鏡 ダブダブなセーラのズボン………。
と、若者達に大モテ。「モボ」「モガ」などの流行語さえ生まれ、伊達めがねや裾の極端に広いラッパズボンが流行した。
『侍[さむらい]ニッポン』
〽︎人を斬るのが侍ならば恋の未練がなぜ斬れぬ………どうせおいらは裏切者よ………。
と、自嘲的な歌や、古賀政男作曲『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』などの哀調をおびたものが広く口ずさまれ、そして心の憂さ晴らしにバーやカフェに出入りする者が多かった。
『十九の春』
〽︎流す涙も輝きみちし あわれ十九の春よ春………。
と、乙女達は甘い涙に誘われ、『島の娘』『天国に結ぶ恋』それに股旅ものの『赤城の子守唄』『旅笠道中』なども多くの人々に歌われたが、『雨のブルース』『人妻椿』『白蘭の歌』『旅の夜風』など新しくレコードがでるごとに大流行した。
しのびよる軍国主義の中で大陸を美化した『国境の町』『満州娘』『支那の夜』などもよく歌われた。「ススメススメ ヘイタイススメ」と国語読本にものったが子供達は無心に育っていき、紙芝居の『正義の味方黄金バット』や漫画の『のらくろ二等兵』など子供達の人気を集めアイドルとなった。
『愛国行進曲』
〽︎見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば………。
『露営の歌』
〽︎勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは………。
と、全国民がこぞって歌い、『日の丸行進曲』『愛馬行進曲』『暁に祈る』『出征兵士を送る歌』など悲壮感の強い軍歌、軍歌で明け暮れた。一方、
『湖畔の宿』
〽︎山のさびしい湖に 一人来たのも悲しい心………。
と、軍部の禁止にもかかわらず若者の心をとらえ、後志真狩村出身の八州秀章[やしまひであき]の出世作、
『高原旅愁』
〽︎乙女の胸に忍びよる 啼[な]いてさびしい閑古鳥[かんこどり] 君の声かと立ち寄れば 消えて冷たい岩陰に 清水ほろほろ湧くばかり………。
も、国民歌謡曲として広く愛唱された。
その後太平洋戦争が勃発、「ほしがりません勝つまでは」の相言葉、国民の悲願も空しく敗戦を迎えねばならなかった。
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p194-201: 73はやり歌と世相 --- 初出: 仁木町広報1989(H1).3,4,5,6
0 件のコメント :
コメントを投稿