平内とその界わい

 平内[ひらない]とは、アイヌ時代にピラナイと呼んでいた所で、ピラは崖、ナイは川の意で「崖(ピラ)のある川(ナイ)」のことであるが、和人はこれに漢字を当てて平内と呼ぶようになった。

 平内の沢(平内川)は、早くから開けた所で、はじめは主に鰊場へ建築材、船材、薪炭材などを伐り出して余市川の本流へ落とし、海岸へ流送していたが、その後、平内川沿いに開墾がすすんで明治・大正時代には麦や豆類の生産をあげ、果樹園も広がって一部落を形成するに至った。

 昭和38年、仁木町南町7丁目付近から同8丁目にかけて、緩やかに広がっている平内の丘陵上に、新国道5号線が走った。以来、交通量は日ごとに増し、バス停留所も設けられた。

 間もなくこの道路ぞいに町営住宅や老人憩いの家が建ち、一般住宅や雑貨店、飲食店など並びはじめ、沿道のぶどう畑やさくらんぼ園など、観光客の目をひくようになった。そればかりではない、バスの車窓にうつり変わる対岸の五剣山の奇岩、端麗な山肌をほこる然別の丸山、それに眼下に見えがくれする余市川の清流、その瀬音さえ耳に届きそうである。

 春は残雪とまがうコブシの花に続いてエゾヤマザクラが点綴[てんてい]し、秋は全山紅葉、それに冬景色もすてがたい。

 明治3年の早春、余市越え山道を辿って石狩へ赴いた米沢藩士山田民弥主従一行も、雪に映えた然別の山々をことさら賞めて、七言絶句の漢詩に詠んで『恵曽谷[えそや]日誌』に書き残している。

 新国道5号線が走っている直下の谷は、高さ20m前後もある断崖が川沿いに1kmにもわたって断続しているが、これは誰が眺めても余市川が永年の間に侵食した段丘崖であることがうなづけよう。

 地形をみるに敏いアイヌの人達が、この崖下を流れている余市川をさして「崖のある川」と呼んだのではないか。だとすればここが平内の名の誕生の地であると言ってもさしつかえないであろう。

 明治17,8年頃か、それまでの官道であった余市越え山道に代わって、この崖下の河原に国道が開通し、半官半民であった駅逓所が設けられ、ついで宿屋なども並び、旅行者の宿泊や人馬の継立も行なっていて当時の内陸の開発に便宜を与えた。明治37年、北海道鉄道(函館本線)の開通によってそれも次第に衰えたが、その建物などは昭和37,8年頃までその原型をとどめていた。

 ともあれ、大黒山と五剣山の裾間をくぐる余市川の峡谷、その左岸はJR函館本線と道道余市ー然別線、右岸は前期の新国道5号線、それに小樽から余市を経てモンガクの丘伝いに平内に至る広域農道、それら五条の交通路線がここ平内と然別の峡でひしめき合っている。

 恵まれた風光と史跡と交通の要衝の地と言えるこの山峡、自然の景観を残したままの開発が待たれる。

然別の峡谷
余市川の左岸が然別、右岸が平内である

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p228-229: 83平内とその界わい --- 初出: 仁木町広報1990(H2).8

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