はやり風邪

 昔から「3回風邪をひくと冬になり、もう3回ひくと春になる」と言われたものであるが、昔も今も季節の変わり目には風邪が流行しやすい。中でもインフルエンザ(流行性感冒)には質[たち]の悪いものが多く、こじれて長引いたりするばかりか、余病をも引き起こしかねないので、「風邪は万病のもと」と恐れられてきた。

 大正7年から同8年にかけて流行したスペイン風邪は、世界風邪とも呼ばれたインフルエンザで、スペインの国ではじまり世界各国をかけまわって日本でも大流行した。

 スペイン風邪は伝染力が強いばかりでなく、死亡率も高く、当時、世界中で7億人がこの風邪にかかり、2,100万人が死亡したといわれ我国でも死者39万人に達したと推定されている。

 時に、全国各地の学校や工場では休業し、軍隊でさえ一般面会など禁止の処置をした。都会などの火葬場は大混乱で、死体の処置に困ったところさえ出たという。

 一方、風邪薬の広告が連日新聞紙上を賑わし、薬も飛ぶように売れた。

 当時の大江村(仁木町)も、その例外ではなく多くの罹患者が出、幾人もそのために死亡した。村中は戦々恐々だったというが無理もない。

 当時、村民は医者に頼るばかりでなく、越中富山の置き薬や種々の民間薬など、風邪によく効くと聞けばなんでも試したが、中には「病気は神とか悪魔の仕業」と信じ、風邪の神除けとか神送りなどする人も少なくなかった。

 しかし、最も人気があったのは「十八組」と称する煎じ薬であった。これは18種類の草根木皮などを配合したという漢方薬の類で、それが寒冷紗[かんれいしゃ]の小袋に包装されていて、そのまま茶わんなどの器に入れて熱湯を注いで振り出し、これをのんで就寝すると多量の汗が出て、熱がさがるというもの。

 この十八組は元来、徳島県辻町(現在、井川町)のある老舗[しにせ]の家伝秘法薬とされており、昔から「辻の十八組」としてその効用に定評があったらしく、たまたまこの地方出身者であった仁木在住の何某が国から取りよせて使っていたのがきっかけとなり、当時、荒物雑貨店を営んでいた かくちょう堀北、かねよし渡辺、やまじゅう宇山、なかいち笠井商店などの薬店以外でも取り扱われ、その売れ行きは大江一円に広がり、赤井川村にまでもおよんだ。

 大正10年の春、筆者は仁木小学校1年製に入学したが、たまたまその年の秋から冬にかけて風邪が流行した。

 自家では梅干の黒焼きやショウガ湯、それに黒砂糖を混ぜたニンニク湯など毎日のようにすすめられ、もし洟水[はなみず]でもたらすと、さては風邪かとばかり、真綿の首巻きをし、十八組を飲まされ、おまけに小袋に入れたニンニク玉を首か胸に吊して学校へ出されたもので、これはどこの家庭も大同小異であった。

 学校では手洗い、うがい、マスクの励行などの躾もきびしかった。家庭でも学校でもインフルエンザには神経をとがらせていたようであった。

 あれからかれこれ70余年、今なお引き風邪の特効薬はみつかっていないという。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p172-173: 67はやり風邪 --- 初出: 仁木町広報1988(S63).3

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