さて、この道路の余市・仁木間は、明治初年、北海道開拓使が当時の川村(大川)から黒川村を経て、現在の仁木町のほぼ真ん中を貫いて大江3丁目に延びる新道を計画した。これは従来のヨイチ越え山道に比べて距離的に著しく短縮できるし、何よりも険しい山道をさけることが出来るからであった。
明治4年(1871)、余市へ入植した会津団体移民らの手によって、はじめてこの新道の開削が進められ、ほぼ2カ月を費やして路線の見通しも大体ついていたようであったが、その後間もなく荒廃のやむなきに至った。
明治12年に徳島県、明治15年には山口県から相次いで団体移民が入植したが、移住民らは荒山の開墾とならんで道路づくりの必要に迫られ、余市、仁木、大江間を結ぶ新道の開削は急速に進められていった。
その後この道路は、畚部[フゴッペ]トンネルから海岸を西に向けて走り、大川十字街で南に折れ、大川と黒川で2つの小坂(砂丘)を越えて余市駅前を仁木に向かうが、ここに難所があったそれは鉄道線路を2度踏み切り、相次ぐ2つの十字路を曲折しなければならなかった。しかもその距離は500m前後しかない短区間をである。
近年これが現黒川小学校前を走る広い直線道路に改変されて、坦々と仁木の街へ続くようになった。
ところが、余市境(阿部冷蔵)あたりから弓なりの緩カーブが、仁木町北町の庚申堂付近まで1km余も延びていて、近年自動車事故多発地帯になった。
開拓使時代の道路計画図によると、仁木役場に向けて真っすぐに線引きされていて、こんな曲線は見当たらない。しかし明治29年製版の仮製5万分の1地形図を見るに及んで、はじめてその謎が解けた。
当時の中ノ川の流路は現在の東町11丁目吉田正周[まさちか]氏宅付近から北町13丁目、大西階楽園地所付近に向かい、さらに国道ぞいに北に流れて現黒川小学校近くで本流の余市川へ注いでいた。
従って、国道の沿線は水はけの悪い中ノ川の低湿地が広がる一面の葦原[よしわら]で、その上毎年のように洪水に見舞われる泥炭性の地で、道路用地としては不向きな所だった。
幸い、近くに余市川本流が大きくうねり、その自然堤防による三日月型の高まりがあったので、国道はいち早くこの微高地上に切り替えられ、自然堤防の地形同様のカーブに従って現在におよんでいる。
仁木の住民は昔からこの辺一帯を一番地と呼び、余市と仁木の村境でもあった。庚申堂はこうした村の出入口にあるが「村人の生活や道行く人々の安全」を祈念した先人達が、明治21年の秋にこれを建立した。
一番地の庚申堂 |
庚申堂を通過すると間もなく種川橋にさしかかり、仁木町役場前まで見通しがきき、砥の川入口付近までほぼ直線路が続いている。
かつて種川橋付近一帯は余市川が大きくうねりこんだ河の跡があり、そこへ種川が合流していたので地盤が低く湿地で水害にも弱い所であった。従って国道もそれをさけて河岸の崖の上を大まわりしていた。
この低湿地を埋め立て、種川の堤防を固め橋脚も高めて新道を敷いた。しかしここにあった古い祠[ほこら]は取り除かれ、ご神木と呼ばれて村人に仰がれていたアカダモ(楡[にれ])の巨木も切り倒されて土砂の下敷きになった。
今、この道路沿いには雑貨店や農機店などが並びはじめたが、種川橋のたもとから清野、笠井、大久保各氏の地所先には、その昔、余市川にえぐられた崖や埋め残された谷が三日月型につらなり、わずかながらも当時の面影をとどめている。
仁木の中心街へはいる、無量寿寺から仁木消防署あたり、ここも昔は水に悩まされた。春先の融雪期や、秋の長雨が続くと毎年のように路面に水があふれた。
仁木町の中心街(北町1丁目、2丁目) |
やむなく国道を横切って川水を流し出水時に備えた。当時、左坂秀樹氏宅前と近藤商店前に、せまい板橋が架けられていたのがそれである。今はその橋も川跡も舗装路の下に消えうせたが、その伏流水は無量寿寺の横から板東氏のりんご畑へ抜け、小川となって種川へ落ちこんでいる。
そう言えば、かつて古老が語っていた。「役場のうらの小川(現に野村、安崎両氏うらの畑地に川跡がある)で、アキアジをとったことがある………」と。筆者もまた、昭和の初めころの出水時にこの付近へフナやヤマベが迷い込んでいたことを記憶している。
ここはもともと種川の一支流であったのだ。
仁木の市街地を離れた国道は、砥の川への分岐路を過ぎると間もなく左に折れて鉄道線路をまたぎ、緩やかにうねりながら平内(アイヌ語で崖[ヒラ]・川[ナイ]のこと)から大江1丁目へと向かう。
頂白山の裾を切り開いたこの新道、その崖下には余市川が瀬音を立てて流れ、川沿いには旧国道5号線があちこち玉砂利をかぶったまま取り残されている。
田圃[たんぼ]や果樹園を点々とのせた河原敷きには農家が2,3軒……、かってこのあたりには、駅逓所や宿屋が並んでいたという。
駅逓所は、開拓使時代には重要な道路筋に設けられた半民半官の請負制度で、旅行者に対する宿泊や人馬の継ぎ立てを行い、当時の内陸地開発にも便宜を与えた所であったが、北海道鉄道(函館本線)の開通と共に次第にその機能を失っていった。
仁木町南町8丁目、細川松吉氏家は、かつて駅逓所の請負業務を代々にわたって営んでおり、その構えの大きい旧駅舎も近年まで存在していた。この有形文化財とも言うべき建物は、去る年の風水害で空しく倒壊して、今はない。
旧国道5号線(南町7-8丁目) |
明治15年7月、山口県からの団体入植者は、余市沢町から旧ヨイチ越え山道を通って桐谷峠をこえ、砥の川を経て然別に辿りつき、余市川を渡って初めて目的地大江村の地に足を踏み入れた。ここが丸山下の一の号であった。
この付近は幕末の頃からヨイチ越え山道の通行人や、冬から春にかけて大勢入り込んでくるキコリや造材人夫ヤン衆を相手に茶店などが軒を並べ、余市川を通う舟つき場もあった所で、大江村開拓委員長の任にあたった粟屋貞一氏も入地早々ここに農作物の試作試験地を設けたり、大黒沢の流れに水車を仕掛けて精米や製粉器の動力にした。
今、大黒沢の丘にはスキー場が年ごとに賑わい、その麓には近ごろ大きなスポーツ施設も出来上りつつある。これに温泉でも湧けば一層快適であろう。
少し道草を食いすぎた。それでは嘉屋の坂を登り、水野の坂を下りて大江橋の方へ向かうことにする。
大江地区の道路は、最初の移民が入植した年から2カ年がかりの工事であった。一の号からルベシベ(大江3丁目)の余市川岸までは、開拓使地理課が岩内街道用地の見込みとして以前から調査測量してあった。
とは言え、着工してみると原始に近い森林や笹ヤブがうす暗いばかりに茂り、山ブドウやコクワのつるなどがからみ合っている。その中を測量標識を探りながら道路開削を進めていったが、中途でついにその測量標識を見失ってしまった。そこでやむなく地図に頼って方位を決め、工事をすすめて一応開通に至ったが、実は誤ってルベシベの目標から2町(260m)余り下流に出てしまった。しかし経費やその他の都合でそのままにした。
大江村民らの努力によって開通をみたこの村里道は、間もなく官道に昇格され、余市川には官費によって渡船場が設けられ、次いで吊橋に変わり、さらに待望の木橋が架けられて大江橋となった。
道路は砂利を敷いて固められ、夏は2頭だての客馬車が、冬は幌をかけた客ソリが鈴を鳴らしながら余市・岩内間を走り、開拓民の中には農閑期に馭者[ぎょしゃ]の内職をした者もいたという。これは北海道鉄道(函館本線)が全通した明治37,8年すぎまで続けられた。
さて、当時からの難所の一つ………。大黒沢から押し出された扇状地状の土砂が小高い丘陵をつくって余市川畔まで迫り、一の号から奥への道をはばんでいたが、ここを切り開いたのが、地元の人が呼ぶ嘉屋の坂であり、水野の坂である。
嘉屋の坂は急であり、水野の坂は長かった。昭和10年ごろまで物資の運搬は馬車か馬ソリが主だったので、この坂道の登降には人も馬も難儀した。
地元出身の南イ子[ネ]さん(旧姓水野イ子、現在岩見沢市在住)は「米や雑穀類を満載した荷馬車(大車)などは、坂に差しかかると、中途でたいていは1,2回休み、一気に登りきれる馬は少なかった。坂で荷馬車が止まればすぐ後ざりする危険性があったので、馭者はすかさず道ばたの石ころを拾って車に歯止めをかけ、馬に一息入れさせていたのをよく見かけたし、また冬、薪や材木を運ぶ馬ソリが難渋[なんじゅう]したので、時には余市川ぞいの荒ヤブの中に仮りに雪道をつけて、遠回りして急坂をさけたものだと聞いた」と語ってくれた。
今、新装なったばかりの国道5号線は、坂もカーブも忘れたように、大江の田園地帯の真ん中をすべるように走り抜けて、稲穂トンネルへ向かっている。
稲穂峠上より大江の田園をのぞむ |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p164-171: 66国道5号線 ー 余市から仁木へ --- 初出: 仁木町広報1987(S62).11,12, 1988(S63).1,2
懐かしい
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