黒川毛利農場は、当時未開のまま残っていた黒川村から仁木村1番地(北町11丁目)付近まで700haに及ぶ広大な原野で、明治27年、国から払い下げを受けた。
農場の基本方針は、当時お雇い教師であったドイツ人シーメンスから、ヨーロッパ式の混同農業の指導を受けてその方法にならった。
それは牧畜と畑作を併せて行うもので、先づ家畜の放牧地として黒川村から登村にかけた丘陵地をえらび、牧草地として湿地(泥炭地)約100haを当てた、その他400haは、畑地として小作人を入れたが、それは肥沃で水がかりのよい仁木村の近接地や黒川村の古い砂丘地帯及び登川沿いの肥沃地がえらばれた。
農場の主力を牧畜におき牛馬の他に羊や豚やニワトリも飼養した。そのため大きな牧舎を建て、また丘陵地の放牧場の周囲にはヤチダモの木を太割りにした木柵[きさく]で囲い、その外側には塹壕[ざんごう]を廻らした。地元の人はここを馬牧場と呼んでいたが、濠の跡や朽ちた牧柵など昭和の中頃まで残っていたという。
牧草は湿地帯に蒔き、2頭曳きのプラオで耕した。地ならし機は2頭立ての馬に引かせて整地を行い、収穫も刈取機を使ったという。
こうして南部産の牛馬10頭を入れたほか羊や豚、それに百数十羽のニワトリを飼養した。
畑作地には小作人を入れた。ここは開墾し易い土地として小作希望者が多く、仁木や大江をはじめ香川県や徳島県からも入地した。しかし小作人は土地を分けてもらうだけで他の補助などは一切なかった。
それは、大江村の小作制度で家屋や飯料を給与したことが、小作人の自立自営の精神を蝕[むしば]むことを知った粟屋貞一氏の塾考の上でのことであろう。
小作人は入地すると先づ居住する小屋掛けをした。それを編笠小屋ともオガミ小屋とも呼び、屋根も壁も草や笹で葺き、蓆[むしろ]を下げて戸口の代わりにし、床は丸太を並べて笹などをのせ、その上に蓆などをしいた。
主食は麦でソバやいもや稗も食べ、米や味噌その他日用雑貨品は、町の荒物屋から秋の収穫時払いで前借りした。開墾地には麦類をはじめジャガイモや豆類のほか換金作物として、仁木村にならって藍作もしたが、入植して10ヶ年間くらいは文字通り血のにじむような苦しみが続いたとうい。
いずれにしてもこの混同農業の経営は容易ではなかったらしい。
粟屋貞一氏は、明治29年にはこの農場を新来の末広要一氏にゆずり、かねてから計画していた赤井川村の開発に転じたのであった。
黒川毛利農場境界 |
出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p10-11: 1黒川毛利農場 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).1
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