切り開かれたばかりの道の両わきは、赤茶けた砂礫や粘土の層がほぼ平らに堆積し、地表近くは黒褐色の肥えた土が覆っていて、丘の上はりんごやぶどう畑をのせた段丘地が一面に広がっている。
この付近が開墾されたのは明治20年代に入ってからで、同30年前後になると目ぼしい土地はほとんど成墾された。
ここは地形の関係で水はけが良く、日ざしにも恵まれている上に肥沃地であったので、開墾当初から麦類をはじめ豆類などが無肥料でもよく穫れた。
大正3年から同7年にかけての第一次世界大戦時代には、大福・中福・えんどうなどの豆類を中心に、じゃがいもなども多く耕作されて、戦争によるいわゆる豆景気や澱粉景気に湧いた。しかし、それも束の間、戦後の世界的大恐慌の波をかぶったがかりか、長い間原始的な略奪農法を繰りかえしてきたので、土地は痩せ、地力はとみに低下した。
当時、陸軍糧秣廠[りょうまつしょう]が買いつけていた燕麦[えんばく](馬の飼料)、その燕麦畑がここに広がっていったのは、その頃からであった。
燕麦は痩せ地にも耐える作物であり、その栽培管理も比較的容易であったが、それよりも除虫菊栽培の有利性に気づき、燕麦畑と代わるように除虫菊が登場して、祇園の丘からモンガクにかけての丘陵地隊の夏は真白い菊の花で覆われた。
それは大正時代の終り頃から昭和10年頃までがピークであり第二次世界大戦の兆[きざ]しで衰えはじめたのである。
そのような思いをめぐらしているうちにいつの間にやら祇園社の前に出ていた。広いぶどう畑の中に赤い鳥居と松の木立、その奥に神殿と拝殿をかねた素朴な建物がすわり、前には安山岩を五角に削った地鎮塔が立っている。それには天照皇大神をはじめ5柱の神名が刻みこまれている。
しかし建立者氏名も建立年月日も読みとれないまでに風化しているが、「野ざらしの神」にふさわしい姿でじっと部落を見守っている。
聞くところによると祇園社は当時この付近を開墾した吉田幾太郎・吉田元吉・山田大助・東峰吉・山本孫太郎各氏らが世話人となり、郷里の徳島県から神霊を此処へ迎えたものであるという。
疫病神を鎮め、火災などの徐厄を祈り、併せて豊年万作を念願して、不安な心の拠りどころを神霊にすがり求めたのであろう。
星霜百年、ここに今もなお父祖からうけ継ぎ地所を守り続けている地元の人たちは、祇園社恒例の祭典や春秋2回の地鎮祭には、仁木神社の宮司を招いてささやかではあるが部落一同が参集して、楽しみを交わしながら先祖の心を心としているようである。
出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p12-13: 2祇園社のある丘 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).2
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