大江のふるさと山口を訪ねて

・山口市

仁木町大江のふるさととも言うべき山口県内に点在するそのゆかりの地を訪ね歩いてみた。

 地図をひろげてみると、山口県は本州の西端に位置し、日本の地中海とも呼ばれている瀬戸内海の入口を占める関門海峡をかかえ、かつて大陸文化や西洋文化の流入の地であった九州に隣接し、海の彼方には朝鮮や中国がよこたわっている。

 現在の山口市は、県庁の所在地として県の政治、文化の中心地であるが、山口市のガイドブックに「山口市を語ることは、大内氏を語ることだ」とあった。

 市内が展望できるという小丘にあがって見ると、そこには大内氏24代大内弘世の馬上姿の像が、美しい山口盆地を静かに見守りつづけているかのように建っている。

 大内氏中興の祖といわれる弘世は、かねて京都に上り都の風物にすっかり魅せられてしまい、何としても自分の手で京都に似せた街をつくりたいと決意し、この山口盆地を最適の地としたのであった。

 盆地を貫流する一の坂川を賀茂川に見たて、壮大な居館を御所になぞらえ、街並を碁盤目状に区画し、それに大殿大路、縦小路、錦小路などと京都風の通り名にし、北野天満宮や祇園社なども勧請して各所に祭り、京風の移入に努めたが、「それでも田舎臭い。街を歩く人間が田舎言葉だからだ」と、京都の童[わらべ]を沢山連れてきて辻々に立たせ、京言葉を教えたと言う。

 山口が「西の京」と言われるのは、今から600年ほど前、大内弘世が山口大殿大路へ居館を築いてから、これを本拠におよそ200年間に亘って、西中国から北九州にかけて勢力を張るとともに、大陸や西洋をも視野に入れて一層の躍進をはかった。中でも、応仁の戦乱(1467 - 77)で京都は荒廃した。都での暮らしの方途を失った公卿[くげ]や僧侶をはじめ芸能人達は、足利将軍をしのぐ程の富と武力を擁した大内氏を頼って続々と山口に移ってきた。

 こうした中で、大内氏は戦国時代きっての文化的栄華を築きあげたのであった。

 大内文化は、最後の当主31代大内義隆の代にその極みに達した。義隆ほど文化を渇望した戦国武将もなかったようであるが、その文人趣味がかえってあだとなり、家臣の陶晴賢の叛逆にあい、義隆はクーデターの軍勢を逃れて、長門市大寧寺で自刃した。時に文久12年(1543)、45歳であった。こうして大内氏は滅亡した。

大内弘世の像

 跡を継いだ毛利氏は、関ヶ原の戦いで徳川方に抗したため、居城を萩に移さざるを得なかった。従って山口も山峡の小都に衰退した。

 やがて時が移り、幕末のあわただしい時代を迎えるころ、藩主毛利敬親[たかちか]は、「萩は辺境であり多端な時局に対応するに不敵」とみて、その藩庁を山口に移したことから再び活況をとり戻したのであった。

 山口市を語ることは、大内氏を語ることだ、と山口市内で耳にしたが、大内文化をさぐるにはその発祥の地、いま山口市内になっている大内町御堀の興隆寺や乗福寺界わいを訪ねるとよい、と仁木町北町3丁目在住の大内一己氏から聞いた。

 因みに一己氏は大内氏45代の家系図や古図、それに家紋の「大内菱」などなど所蔵されていて、大内氏末裔の家柄であるという。同氏所蔵の『山口古図』も借用した。

山口古図(大内一己氏蔵)
図のほぼ中央が大殿御殿、
その上側が大内御殿(築山館)

 筆者はいま、JR山口駅から3kmほど離れた郊外の大内町(郷)へ、タクシーを走らせている。やがて市内の建物が疎になり、いつの間にやら田園風景、車は畑の中の小路をうねる。

 大内一己氏から借用した『山口古図』をひろげてみると、「大昔此所大内縣[あがた]ト言ウ」とあり、「氷上山妙見社」、「下寺三十五ケ寺」、「琳聖太子御寺常福寺」などの寺社名や「御堀」、「御堀峠」など当時の地名などが記されている。

 石づくりの大きな鳥居の前で車をおりる。黒々と茂った森を背に赤い屋根の堂宇が3つ、氷上山興隆寺である。大内氏の氏寺で大内氏前世のときは大いに栄えたが大内氏滅亡後は衰え、いまの建物は江戸時代のものであるというが、興隆寺の隆盛を物語る唯一の遺物である大きな銅鐘がある。大内義隆(31代)が寄進したもので、その高さ2m、口径が1m20cmにも及ぶ巨鐘、朝鮮鐘の影響を多分に受けている傑作で、国の重要文化財に指定されている。

 興隆寺からものの10分ほど歩くと乗福寺である。「周防最古の禅寺、大内氏始祖琳聖太子、山口市開府大内弘世、学都山口祖上由鳳陽」などの案内標がにぎやかに立っている。

 大内氏は百済の聖明王の第三王子である琳聖太子の末裔であると伝えられている。太子が日本へ渡来したのは推古天皇の時代であると言われているから古い話である。飛鳥時代から本州の西の果の地、この大内縣に住みついた大内氏は、24代弘世の時に防長の二国を制覇して8代200年余の繁栄の基礎を固めるわけであるが、山口に移る前はこの大内郷(町)に本拠を置いていた。乗福寺はその館の跡と伝えられて付近には、古い地名が多く残っている。

 乗福寺は臨済宗の古寺で、大内氏22代重弘の開基である寺運の盛んな時は塔頭が36宇末寺が88箇所あったというが、大内氏滅亡とともに荒廃した。いまの寺は塔頭の正寿院を移して本寺としたものである。火災などで多くの寺宝を失ったが、まだ創建当時の伽藍図や古瓦、古文書の類が保存されているという。境内には大内氏の始祖琳聖太子の墓(供養塔)、大内重弘の墓、大内弘世の墓などが静かに眠っている。

 苔むした石垣、いたいたしい程崩れかかった土塀、栄枯盛衰の大内家を偲びながら、すり減った石のきざはしを、ゆっっくりと下りた。

南明山乗福寺

 高みから眺めた山口は緑の多い街である。青い空が広がって見えるのは市中に工場らしい工場などがないせいであろうか、そう広くない盆地の周辺には寺院や神社や古蹟などがちらばっていて、それらを目で拾っていくのも楽しい。

 山ぎわに瑠璃光寺[るりこうじ]の五大塔がそびえ、八坂神社の大鳥居や、大内館跡の森も浮かんでみえる。

 山口駅から北東へ1.5km程のところにある竜福寺の門前にやってきた。この付近一帯が大内氏館跡で、大内弘世がそれまでの館であった大内郷(林)からここ山口に移り京都風の街づくりをはじめた処で、それは正天15年(1360)ころといわれている。

 大内氏は弘世以来歴代ここで政務をとったが、その領国は中国地方のみならず九州にまで及び、朝鮮や中国の明と交易をして大いに利を得ていたので、当時の山口は京都をしのぐ程の富と文化を誇ったという。都の公卿や学者や僧侶などの文人墨客は、きびすを接してこの大内館をおとずれた。

 31代大内義隆は累代の余慶によって栄華はその極に達した。中国から九州に亘る7カ国の守護職になり位は従二位に進み、その富と権力は天下に並ぶ者がなかった程であった。しかし後半生は武事をかえりみず、戦国争乱の世相をよそにもっぱら文人的生活を耽けるようになった。

 しかし側近の陶[すえ]晴賢の謀反という不覚の事態を引きおこすに至り、遂に陶氏の軍勢に抗しきれず、わずかな手勢をつれた義隆は山口をすて、長門にのがれて大寧寺で自刃し、大内氏は滅亡した。

 竜福寺の山門をくぐると広い境内、長い石だたみの参道をふんで、梅の香がほのかに漂う中を本堂へむかった。

 竜福寺は大内氏滅亡後、大内義隆の菩提をとむらうために、毛利隆元が再建した寺である。当時の建物は、明治14年に消失したが。その後再建したのが現在の本堂であるが、室町時代の寺院建築の特色をみせている。寺宝として大内義隆の画像や、毛利氏の文書を多く残していて、本堂は国の重要文化財の史跡に指定されており、山門や禅堂は創建当時のものであり、その山門は桃山時代の形態をとどめているという。

竜福寺本堂

 大内氏8代200年の政治・文化の中心地。叛乱軍の掠奪と放火で広壮な殿堂も山口の街も一瞬にして焼土と化した。と、遠い霧の中の影絵のように思い浮かべながら本堂に向かってもう一度頭を下げた。

 竜福寺を出て北へ3,4分ほど歩くと、大鳥居の立つ八坂神社、その隣に大内義隆の霊を祭る築山神社。この付近一帯が築山館跡であるという。

 当時の築山館は大内氏代々当主の居館であったが、迎賓館でもあり、画僧の雪舟や連歌師の宗祗[そうぎ]ら多くの文人が出入し、多彩な大内文化の舞台となったところであった。

 現在この築山館跡は、国指定の史跡となっているが、こんもりと茂る木立の一角に、高さ4mほどの築地(土塁)がわずかに名残をとどめている。つわ者どもの夢のあとだけに、何かもの悲しい気がする。

 天文20年(1551)8月27日、その日築山館は、京都や豊後(大分県)の客を招いて猿楽[さるがく]など催し、その夜の酒宴にはいったところであった。

 突如、陶[すえ]隆房(晴賢)の軍勢が山口に侵入してきたことが伝えられた。築山館は平地に作られた館であって、堀や石垣に囲われてはいるが本格的な城ではない。

 大内義隆は軍議もそこそこに手勢を引きつれて山口を離れた。

 ところが築山館を出るころには、およそ6,000騎を従えていたものが間もなく3,000騎にへり、さらに夜中に逃げだす者が続出して、最後まで従った者は1,000騎ばかりであった。

 燃えさかる山口を背に、義隆一行は長門国の仙崎(長門市)をめざした。仙崎についた義隆たちは、そこから船で九州へ逃げようとしたが、荒天のため海に出ることが出来ず、遂に覚悟を決めて、ほど近い深川の大寧寺(長門市湯本温泉)にはいった。

 討手は近くに迫っている。風呂に入って行水し、身を清めて白装束に着替えた義隆は、住職の異雪和尚が説く、「即身成仏」の教えに、じっと耳を傾けた。

 討手が門前におしよせて、ときの声を挙げたが、「自害するから、今しばし」と、待たせた。

 討つ人も討たるる人も
  もろともに
   如露亦如電応作如是観[にょろやくにょでんおうさにょぜかん]

「人生は露のように、また稲妻のように儚い。またこのような人生観をもつべきだ。我らを討つ陶隆房(晴賢)も続いて滅びるであろう」と。

 大内義隆は従容として死につくことを決意し、辞世の歌を詠んだのであった。

 事実、そのわずか4年後に陶晴賢は、厳島の戦で大敗し毛利元就に討たれ、山口は毛利の支配下に入るのである。

 ところで現在仁木町内に、大内氏や陶氏の末裔の方が在住している。

 山口の争乱で破れ、秋田に逃れた大内家は、明治になって余市町(山田)に入植し、のち仁木町銀山地区へ移住した。陶氏の後裔[こうえい]関井家は、厳島の戦に敗れ、船で阿波国へ落ちのび百姓になり、明治19年に至り、仁木町開墾移民として移住した。

 大内氏と陶氏は、ともに戦火を交えて争った仲とは言え、もとをただせば同族の間柄であった。いづれにせよ仁木町にとっては、大内家・関井家ともども開拓の恩人である。奇しき縁とでも言えようか。

・萩市

萩といえば、夏みかん、萩焼、土塀、長屋門のある武家屋敷など。人口5万の小都市ではあるが、かつては歴史の流れを大きく変える原動力となったところ。幕末に活躍した維新の先覚者吉田松陰をはじめ高杉晋作・久坂玄端・木戸孝允・伊藤博文・山縣有朋ら志士の姿を思い浮かべながら数々ある史跡や旧宅などを訪ねるべく、山口市から国道262号線を特急バスで萩市へ向かう。所要時間は50分ばかりである。

 この道路、かつては萩と三田尻(防府[ほうふ]市)を結ぶ江戸時代の重要な街道で、萩藩の参勤交代や領内巡視の道として開かれたが、最短距離を結ぶため難所が多く、標高も高く冬などは風雪がはげしく、通行に苦労が多かったという。

 この萩往還の歴史の道。今は難所をさけた舗装道路に変わって車はすべるように走る。

 やがてバスは峠をこえて阿武川の谷間へ下る、松並木の間から日本海を背に萩の街並が明るく浮かんできた。

 萩駅でバスを降り、一休みしながら持参した古地図をひろげ、案内書などに再度目を通してから、萩城の跡を目ざした。

 元来、毛利氏は毛利元就以来、山陽・山陰の8カ国を制し、中国地方の雄として君臨していた。しかし毛利輝元が関ヶ原の戦で、豊臣氏の味方をしたため周防・長門の2国に削られ、120万石から36万9000石に下落。しかも広島から日本海の辺ぴな漁村だった萩に城を移すように苛酷[かこく]な命令が下った。

 輝元は防長36万9000石の藩都を、山陽道に沿った町に置きたかった。三田尻(防府市)を候補地にあげ、それが無理なら山口(市)にと思ったが、徳川幕府が許さなかった。結局日本海の西の果の僻地に無理やり押しこめられてしまったのであった。
 輝元の痛憤は、長州藩士たち全部の痛憤でもあった。彼らには戦さなら負けぬという自負があり、いつかは、関ヶ原の決着をつけてみせるという決心を秘めて、いつも箱根の東を睨みつけていたという。

 慶長9年(1604)、輝元が萩に築城をはじめた時は現在の萩の街は三角州上の湿地帯で芦[あし]や荻[おぎ]が生い茂っていた。城は阿武川の河口が日本海へ突出するところの指月山[しづきやま](143m)が当てられた。

萩市
阿武川の三角州上にできた城下町、
海に突き出た指月山(城山)

 築城にともなって町づくりが進められ、18世紀のはじめには城下町としての規模が確定した。以来明治に至るまで防長両国の中心的城下町として繁栄した。

 幕末には維新の先覚者を多数輩出し、明治維新の発祥の地としての役割を果たした萩藩の拠点であった。

 萩市の西北端の海岸に、萩の市民から「お城山」と呼ばれ親しまれている円錐形の指月山は、もと日本海に浮かんでいた小さな島であったが、阿武川から押しだした土砂のために陸地に繋がってできた半島状の地形である。

 その山肌には、クスの木をはじめシイやツバキなどの常緑広葉樹が多く、山麓には黒松や赤松も混じっていて、中国地方としては珍しく暖地性の原生林の面影を残していて、天然記念物として保護されている。

 筆者は今、指月山の麓にある萩城の跡に立っている。別名指月城とも呼ばれ慶長9年(1604)毛利輝元が築城以後、文久3年(1863)、山口に藩庁が移るまで13代、260年の歴史の舞台となった。

 城は本丸・二の丸・三の丸・詰丸[つめまる]からなっていた。本丸は東西200m、南北145m、5層の天守閣がそびえ、それに藩主の館邸や諸役所が並んでいた。


 朝や夕に濠の水に白壁5層の姿を浮かべていたであろう天守閣も今はなく、写真によって在りし日の面影を偲ぶばかりであるが、当時の礎石と台座、それに昔ながらの雄大な石垣をめぐらした濠などが名残をとどめている。その昔いかめしい力のあった者の廃墟の跡は、何かしらものさびしい。折から肌寒い風につれて雨になり、観光客の姿もまばらになった。

 二の丸は本丸の南に接していた。矢倉や蔵元の役所があったが現在は鉄砲狭間[はざま]と呼ばれる銃眼がいくつか空けてある土塀が復元されている。

 その狭間から覗くと、眼前に日本海が展らけ、すぐ近くに黒松の林をのせた菊ヶ浜や、彼方には市女[いちめ]笠を伏せたような笠島が浮かんでいる。

 雨が繁くなってきた。指月山の頂上には詰丸があり、要害とも大将矢倉とも言われ、陸と海を監視する望楼であったというが、城山登山をあきらめ、菊ヶ浜の「女台場」跡へ向かう。

 文久3年、攘夷[じょうい]を叫ぶ長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃したことから、翌年イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4カ国連合艦隊の下関襲撃事件が発生した。

 萩では藩兵の主力が下関に移動したあと、萩藩は外敵から萩を守ろうと、土塁の築造を住民に命じ砲台(台場)が築かれた。

 武士の留守をあずかる老若男女は、身分や貧富を問わず労力や金品を差し出して、台場の築造にあたった。特に萩の女たちは必死であったという。筒袖襦袢に小袴、薙刀[なぎなた]をこわきにした婦人たちの群が菊ヶ浜に集まった。

 男ならお槍かついでお中間となって、
 ついていきたや下関。
 尊王攘夷と聞くからは女ながらも武士の妻、
 まさかの時にはしめ襷[たすき]・・・。
 
 と、土塁築造の作業歌にも萩の女の心意気がうかがえる。

 菊ヶ浜の松林のかげに、その塁の跡が眠るように横たわっていた。

 萩城は関ヶ原の合戦の結果として築城され、戊辰戦争(新政府側と旧幕府側との内戦)のあと廃城となった。「徳川幕府を倒すためにのみ存在したような城である」と言う人もある。

 その天守閣や本丸・二の丸などを廻り、三の丸にあたるという堀内へ出た。方形に割られた道路は江戸時代の古い地図とほとんど変わっていない。道ばたの石垣から夏みかんがあちこちにのぞいている。通る人々は徒歩か自転車が多く、ときおりタクシーが窮屈そうに走る。

萩城天守閣(明治7年解体)

 古地図を頼りに、目ぼしい邸宅などを目あてに歩く。「堀内住い」という言葉は、藩の上級武士であることを意味していた。毛利家一門や永代家老・寄組など歴々の家がこの堀内に豪壮な屋敷をめぐらし、長屋門などを構え、一朝事ある時にはそれぞれ防禦の拠点になるほどの厳重さをきわめていた。3つの総門筋に当る重要道筋などには、諸役所や上級武士の邸宅が立ち並んでいた。それらの邸宅はいずれも高くて堅固な塀と石垣をめぐらし、いわば要塞のような建物であった。

 中でも旧厚狭毛利家の萩屋敷長屋は、本瓦葺き入母屋造り、格子と白壁が目をひく壮大な長屋で、桁行51m余り、萩の武家屋敷長屋として、国の重要文化財に指定されている。

 口羽家は、萩藩寄組という準家老格の家柄であった。その邸宅の門は毛利氏江戸屋敷の門を貰って移したものと伝えられるが、昔のままの姿で残っており、駕籠待や門番詰所などがついた大門で、白壁に腰のなまこ壁や出格子などが調和して美しい。萩市の現存している武家屋敷門のうち最も大きく、こちらも国の重要文化財に指定されている。

 口羽家から東へ平安橋に続く道の途中、行手が突然かぎの手に曲り、左右に堅固な土塀を連ねてわざと見通しを悪くしてある場所がある。城下町独特の造りで、地元の人はこれを「鍵曲[かぎまがり]」と呼び、また「追廻し筋」ともいう。これは戦争の際、侵入者の進行をさまたげ、弓矢や銃弾などの射通しを不能にするためであった。

 明治維新後、旧主の去った堀内の家屋敷の多くは毀[こわ]されたが、崩れかけた土塀や石垣、そして土塀の上から枝さしのべた黄橙色に映えた夏みかんなどの風情、萩市ならではの感、一入。

 萩のみかんが家々に植えられたのは、明治になって士族の救済策として奨励されたからであったという。

夏みかんと土塀

 東萩駅に近いグランドホテルを出て、寺町をめぐり城下町に向う。途中お城山(指月山)の温客な山肌が家並の間からみえがくれする。

 寺町は城下町の重要な一部を占めている。萩市街の北よりの三角州上、最も高い地域をしめ、常念寺や亨徳寺、海潮寺、長寿寺、法華寺など20余りの寺々が集まっている。

 藩政時代、一朝事あるときにはただちに兵舎に変るためのものであったと言い伝えられているがいずれも由緒深そうな寺々が重々しく構えている。今ではそれぞれ檀家をもち、その寄進によって支えられているというが、中には保育園や幼稚園など社会事業に乗り出された寺なども見うけられる。萩市内には、この寺町のほかに50数カ所の寺院があるという。

 今、呉服町の一角に立っている。この付近一帯は萩城城下町の中心地で、旧御成道が通り、これに面して藩御用達であった菊屋家の屋敷が残っている。

 菊屋家の先祖は武家の出で慶長年間に萩に移り、代々藩の御用を勤めてきた豪商であった。その広大な屋敷地に数多くの蔵や付属棟が建てられているが、中でも主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。主屋は、江戸時代前半期のもので桁行6間半、梁間7間半、切妻造り、棧瓦葺きで全国でも最古に属する町屋として極めて価値が高いという。菊屋家見学で予定時間をはるかにこえてしまった。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

 菊屋家屋敷の西側筋は土蔵が立ち並んでいて、菊屋横丁と呼ばれ、この通りの南よりには高杉晋作の旧宅やその他、中級武士の屋敷や土塀などが続いていて幕末時代の風情が感じられ、旅情をいやしてくれるよい散歩道で、案内図などを手にした観光客などがのんびりと歩いている。

 高杉晋作の旧宅はごく普通の平屋建の民家で、風雲児高杉晋作の生誕地。高杉家は藩の中級官吏の家柄で当時はもっと敷地も広く、二階建ての屋敷であったという。邸内には晋作が産湯を使ったという井戸や歌碑などがある。


 碑文に
 「内憂外患迫吾州 正是存亡危急秋
  唯為邦君為家国 焦心砕骨又何愁」

 内では第一次長州征伐、外には四国連合艦隊が馬関(下関)に迫っている。長州は今や風前の灯、正に危急存亡の瀬戸際である。いまこそ長州人は全員決死の覚悟で困難に当ろうではないか、と。

 高杉晋作は吉田松陰の門下生中の逸材で豪胆、意表をつく行動で長州藩の討幕運動の推進者となる。特に奇兵隊を組織した功績は大きいと言われている。

 その晋作であるが、幼い頃は臆病だった。それを見かねた母親は、晋作を近くにある円政寺(金毘羅宮)へ行かせ、そこの天狗の面で肝だめしをさせたという、そんなエピソードもある。
高杉晋作誕生地

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p76-87: 27大江のふるさと山口を訪ねて --- 初出: 仁木町広報1994(H6).2,3,4,5,6,7,8,9

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