仁木町と松浦武四郎

 蝦夷地の探検家であり、北海道の名づけ親として知られている松浦武四郎は、当時蝦夷地と呼ばれていた北海道を前後6回にわたってくまなく歩いたが、その頃西蝦夷地と言われた日本海岸沿いの旅は3度試みている。

 中でも弘化3年(1846)4月、松前から石狩を経て宗谷へ向かう途次、余市に足をとめて、

余市川の沢合いは幅1里(約4km)奥行きが3里もあり土地も肥沃で水質も水利もよい。そこには背丈の高いヨシやカヤが茂っていて処々に沼がある。此処から岩内まで遠いが25,6里だ。ここに山越えの道を開いておけばオカムイ岬の難所をさけるばかりか2日もあれば越える近路になる。もし石狩や小樽あたりに外敵が押し寄せた時に、松前や箱館への通報もスピードアップ出来るはず、そればかりか余市川の沢目を開墾して穀物でも作れば3万石高ぐらいらくらく穫れるように思う。このような土地を開拓せずに棄て置いてあるのは余りにも惜しいことである。

との意を『三航蝦夷日誌』に書いた。

 武四郎はこうして、北方の警備上からも稲穂峠越えの道路開削の急務を説き、併せて余市平野の開拓に及んでいて余すところがない。その慧眼に驚嘆するばかりである。

 安政4年(1857)4月、さきに幕府御雇に任じられていた松浦武四郎は、箱館奉行村垣淡路守より蝦夷地山川地理取調方の名をうけ、新道新川の切り開き場所などの検分をも兼ね、同年旧4月29日、箱館を発ち長万部から黒松内山道を越え、歌棄・磯谷を経て岩内に出たが、その途次かねてから懸案であった稲穂峠の新道をアイヌ1人連れて余市に向かった。

 この道路は余市越え山道とも呼ばれ、岩内から余市まで12里20町余、道幅2間(約3.6m)途中に宿泊所や休憩所も設けられてあり、後には人馬継立所も加えられて旅の便宜が計られた。しかもこの道路は余市から小樽・石狩を経て増毛・宗谷へと延びる重要な官道の一部であった。
 武四郎は「平野は雑木立、両山愈々[いよいよ]迫る。凡そ一里ニシケシ(坂)名義 雲端也。此辺より岩愈々峻しく所々に小滝みる、凡そ二里ばかりにて川行詰り九折七曲(凡そ八丁)イナホ峠。是れより岩内・余市境目、標柱を建つ。シリベシ川眼下に望み、余市・忍路岳東南に眺み、坂を下る(半道)笹小屋すぎてサッテキベツ………」とその観察は細かくそして鋭い。

 かくして稲穂峠の新道を検分し終えて一路余市に向かう武四郎は、この峠道の出来栄えに深く感じたものの如く、
岩ほ切(きり) 木を伐(きり)
草を苅(か)りそけて みちたひらけし山のとかけも
と、一首の和歌を残した。

 仁木町の開祖仁木竹吉は徳島県の人、早くから北海道開拓を志していたが明治8年(1875)、時の開拓使長官黒田清隆の知遇を得、単身北海道に渡って道内各地を巡ること4年、ついに余市川下流の原野を入植地と決めたが、それには同郷の友人岡本監輔の力が大きい。

 言うまでもなく、岡本は明治初年、島義勇、松浦武四郎らとともに開拓使判官の身であり、また親しい間柄であった。従って当時北海道開拓の宝典とも言うべき松浦武四郎の地図や蝦夷日誌類を、仁木竹吉は岡本監輔から勧められて、それを役立てたにちがいない。

 仁木町の開拓と松浦武四郎、奇しき縁でもある。

幕末時代の余市平野全景(函館図書館蔵)
松浦武四郎は、ここを余市川の沢合いと呼んだ

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p48-49: 18仁木町と松浦武四郎 --- 初出: 仁木町広報1983(S58).1

0 件のコメント :

コメントを投稿