ジャガタライモ覚え書き

 ジャガタライモ(ジャガイモ)は、その形が馬の鈴に似ているので馬鈴薯の名がついたという。

 仁木の人々は昔「ニドイモ」と呼んでいた。たまに「ゴショイモ」ということはあったが「バレイショ」とは呼ばなかった。

 郷里の徳島県では年に2回収穫できるのでニドイモ、1株から5升以上も穫れたと言うからゴショイモとも名づけられたのであろう。

 仁木では明治13年(1880)、新開とともに植えた。まず新墾[あらおこ]しその跡へ手鍬でうねを切り大麦や小麦、粟、黍などを播き、ジャガイモは残っている切株の間にトウモロコシや豆類などと坪植した。無肥料でもできが良く、5升も6升も穫れたという。何よりも冷害に強いので、ソバやヒエと共に備荒作物でもあった。

 仁木で最も多く作付されたのは、大正6,7年ごろで、欧州大戦による色豆類の好景気に湧いた中で馬鈴薯澱粉も高騰したからである。

 一時は、水車を動力とする澱粉工場が村内に10カ所以上もあったが、数年後の澱粉景気後退と共にその影がうすれ、動かぬ水車だけが空しく残って子供達の遊び場になっていた。筆者もそこで道草した記憶がある。

 ところで、ジャガイモはトマトと同様アンデス山脈の原産で、そこに住んでいたインカ族によって栽培されたのがはじまりだという。

 インカ帝国を征服したスペインの兵士達が国に持ち帰り、ヨーロッパへは16世紀の後半に広がった。はじめは観賞用として作られ、パリの貴婦人など正装したドレスにうす紫色のジャガイモの花を輪ざしし、夜会の注目を浴びたという。

 我国へは慶長3年(1598)、オランダから長崎へ輸入された。オランダの船がインドネシアのジャカトラ(ジャカルタ)から持って来たのでジャガタライモの名がついた。

 我国でも最初は珍奇な観賞用に植えられていたが、渡来して後、85年もすぎた天和3年(1683)ごろから食用として栽培されたが天明の凶作や天保の凶作で、その真価が認められてから東北や北海道へひろまった。

 北海道ではすでに宝永3年(1703)には瀬棚の漁場で作られた記録がある。これを伝えたのはロシア人であったという。

 本格的普及は明治以降であるが、明治11年頃から品種改良が行われて次々に優良品種が生み出されて今日に至っている。

 ジャガイモは、トマトやナス、唐ガラシなどと同じ仲間のナス科に属しているので、ジャガイモとトマトを接木すると、小さいながら地上にはトマト、地下にはジャガイモができるという。

 最近、ジャガイモ(ポテト)とトマトの細胞融合による「ポマト」の研究がすすめられていて、その実用化は10年程先になると言うが、どんなトマトやジャガイモが味わえることであろうか。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p78-79: 31ジャガタライモ覚え書き --- 初出: 仁木町広報1984(S59).4

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